位置に関して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 01:30 UTC 版)
この二条新御所は義昭の二条御所跡に設けられたとする説があるが、山科言継が天正4年(1576年)9月13日に「右大将家二条新邸を見物」、翌14日には「武家古城を見物」し石垣の取り壊し・搬出されている様子を目撃したことが『言継卿記』に記されているから、明らかに別の場所にあったと考えられる。 また、誠仁親王の時代、禁裏を「上の御所」と呼んだのに対し、こちらが「下の御所」と呼ばれていたから二条新御所は禁裏南方にあったと思われ、御所西にあった義昭の二条御所跡に築かれたとするのは不自然である。 さらに本能寺の変の際、信忠は陣を妙覚寺から二条新御所へ移していることから、両者は近傍に在ったと推測される。同じ時、信忠恩顧の小沢六郎三郎は二条新御所に駆けつけたが明智軍に囲まれていたため「町通り(現新町通)二条(二条通のこと)」へ「上が」って御構えに駆け込んだと『信長公記』に記されているから、二条新御所は二条通南方にあったことが明らかであり、この点からも義昭の二条御所とは別であったと判断できる。 また、先に触れたように乱後、この地に信忠の菩提寺大雲院が建築されていることも有力な傍証となる。 現在は両替町通御池上ルに「此附近 二条殿址」、室町通御池上ルに「二条殿御池跡」と彫られた石碑が建っている。付近には「二条殿町」「御池之町」及び本能寺の変ゆかりの「上妙覚寺町」「下妙覚寺町」の地名が残る。なおこの「御池」が現在の御池通の名前の由来となった。 跡地には、変の直後、豊臣秀吉により信忠の菩提を弔うため、大雲院が創建されたが、間もなく秀吉の京都改造に伴い、寺町四条下ルに移転させられた。
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