会議の評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:24 UTC 版)
J.W.プラットは「空気は友好的であり、議論は一般的によい性質であり、しかも多くの論争的な議論は協定に達しなかった」と評している。すなわち「ポツダムで盛な友好的な空気にもかかわらず、三巨頭会議はその後10年間再び開かれなかった」ことが示すように、その成果は乏しいものであり、合意を見たのは外相理事会の設立、ドイツ占領に対する原則の合意、ソ連のケーニヒスベルク領有、ポーランド亡命政府の解消のみであった。ソ連のメディアは会談が大成功であったと報じたものの、アメリカとイギリスの首脳や両国のメディアはこの会談を評価しなかった。 トルーマンはソ連が平和について熱心でなく、西側との対決姿勢を強化していると感じており、日本の占領管理についてはソ連に一歩も譲らないと決意したと回想している。チャーチルはソ連に対する不満を最初から隠そうともせず、その後もソ連とその占領地域における政策の批判を続けた。一方でソ連側は米英のドイツに対する態度が寛大すぎると考えており、ソ連が勝利の結果として受け取るべき報酬を奪おうとしているのではないかという疑念を強めた。またフランスのシャルル・ド・ゴールは会議への参加を要求していたが、スターリンの拒否によって参加できなかった。このためフランスはポツダム協定に拘束されず、ドイツの占領政策において他の連合国に対する反対を続けた。これは後にソ連側の協定無視を呼び込むこととなり、会議の成果はますます減少していった。
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