今戸人形
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/08 17:54 UTC 版)
今戸人形(いまどにんぎょう)・今戸焼の土人形、今戸土人形は、今戸焼から派生して東京浅草の今戸や隅田川流域とその周辺で作られていた土人形で江戸東京を代表する郷土玩具、郷土人形のひとつであった。江戸時代から大衆の支持を集め盛んであったが、明治半ば以降、西洋からのセルロイドやブリキなどの新素材による人形玩具の流入に押され、また人形制作者たちの後継者に恵まれず衰退した、関東大震災後の復興の際、正統的な最後の今戸人形の伝統を引く製作者だった「尾張屋」の金沢春吉(明治元年~昭和19年)によって一時は復興する[1]。しかし、金沢の死よって江戸から続いた今戸人形の伝承は絶え、廃絶してしまった[2]。今戸人形の歴史の中では雛人形(裃雛)、稲荷の狐、恵比寿大黒、撫牛、おいらん、福助、招き猫をはじめとして、さまざまな種類の人形が作られ、流行をもたらしたという。特に招き猫の発祥である丸〆猫(まるしめのねこ)を産出したことは知られている。
- ^ 金沢春吉は明治の終わりに今戸人形の需要の低下のため、土人形作りを辞め、人形製作の割型を自宅の庭の地中に埋め、箱庭細工製作に転じていた。
- ^ 戦後今戸人形の廃絶を惜しんだ人形愛好家たちの勧めにより、それまで生活雑器等を専門に製造していた家が1950年代末より「今戸焼」として人形作りを始め、今日に至っている。愛好家たちが提供した戦前の今戸人形からの型どりを元に製作を行っているが、廃絶した以前の今戸人形製作者からの直接の伝承がないため、形状、描彩など旧作とは些か異なった作行きとなっている。以上「日本の土人形」1978 文化出版局 「今戸人形」解説文からの引用
- ^ 「出土した人形と玩具」安芸毬子
- ^ 「増補江戸惣鹿子名所大全」問屋大概の項 元禄3年
- ^ 「半日閑話」巻一四(安永7年)
- ^ 「江都二色」」安永2年
- ^ 「誹風柳多留」一九編
- ^ なめ人形とは有鉛の透明釉を施した楽焼風の人形。後に有毒であることがわかり明治に人形玩具への使用を禁止された。
- ^ 今戸のでく(土偶)とは今戸で盛んに生産されていた裃雛のことだと思われる。これは従来の雛内裏形式の雛ではなく町姿の裃姿の雛で下総地方をはじめ東日本各地に流通していたという。別名「下総雛」とも呼ばれた。また、都内の近世遺跡より大量の色のとれた裃雛の出土が確認されている。
- ^ 鐚銭一文で鬻がれた人形。安価に売るため、手間を省いた粗製のものだった。
- ^ 話の中で稲荷へ奉納用の鉄砲狐の制作風景が出てくる。
- ^ 話のサゲに例えとして今戸焼の福助が出てくる。
- ^ 狐、庄屋、狩人の狐拳の人形など
- ^ この場は台本として残っているものの実際の上演には至らなかった。
- ^ 有坂与太郎「郷土玩具大成 東京篇」(1935)建設社「今戸人形」の項参照。
- ^ 東京浅草橋の人形の老舗吉徳資料室には天保3年に記された「玩具聚図」という配色手本が残されている。
今戸人形と同じ種類の言葉
- 今戸人形のページへのリンク