今川義元の本陣地について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 00:16 UTC 版)
「桶狭間の戦いの戦場に関する議論」の記事における「今川義元の本陣地について」の解説
『信長記』や『松平記』などの記述から、高いところにいた織田方が低地の今川方本陣地に攻撃をしかけたという展開は江戸時代には広く知られており、この低地に相当すると一般に考えられてきたのが「屋形はさま」、すなわち現在の桶狭間古戦場伝説地付近(豊明市栄町南舘)である。しかしながら、周囲から見下ろされる危険な場所にわざわざ陣を敷くことは考えにくいという観点から、あまりにも「狭間」である桶狭間古戦場伝説地付近を本陣地と見なすことは、現在に至ってはほぼ否定されている。今川方本陣地については一方で、『信長公記』をはじめとして、丘陵の頂上あるいは中腹、一段低いところであっても緩やかな鞍部であるとする記述も多い。『信長公記』によると、今川義元は本陣を「おけはざま山」に置いたという。この「おけはざま山」という山名は現在では失われているが、東海道沿いの間の宿であった有松村から南東に約1キロメートル付近、あるいは豊明市栄町にある「桶狭間古戦場伝説地」から見て南西に約700メートル付近の丘の頂上にはかつて三角点(位置)が敷設されており、その実績値64.9メートルが付近で最も高所であったと考えられることから、小島広次はこの丘陵一帯を「おけはざま山」と推定している。また、桶狭間古戦場伝説地から南に約500メートルほど、現在の豊明市新栄町5丁目付近にかつて「石塚山」と呼ばれる丘陵があり(ホシザキ電機株式会社本社が立地する敷地付近)、『尾州古城志』(1708年(宝永5年))にここに今川義元が陣を張ったとする記述が残ることから、高田徹はここを「おけはざま山」に比定している。いずれにしても、眺望の良い山頂付近に本陣が置かれていたのではないかとする見解である。他方、『信長公記』のいう「おけはざま山」とは特定の丘陵名ではなく桶狭間にある山稜地帯の総称ではないかとする海福三千雄の説があり、尾畑太三は、『総見記』(1685年(貞享2年))にある「桶狭間ノ山ノ下ノ芝原」、『桶狭間合戦記』(1807年(文化4年))にある「義元只今桶狭間山の北、松原に至て」などの記述、そして『武徳編年集成』(1741年(寛保元年))にある「桶狭間田楽が窪義元の陣所」、『桶狭間合戦記』の「沓掛を出陣し桶狭間山の中、田楽狭間」などとする記述から、山中ではなくその際にある田楽狭間あるいは坪と呼ばれる平地、さらに方角を考慮して名古屋市緑区桶狭間北2丁目(さらに限定して桶狭間北町公会堂のある付近(位置))ではなかったかとしている。また梶野渡は、64.9メートルを頂とする豊明市栄町の山上からは西方の高根山や幕山の稜線に阻まれて善照寺砦・中島砦をうかがうことは不可能であるという指摘を、また人馬や輿がわざわざ深い山林をかき分け山頂にまで至るという労苦を味わう必要があるのかという疑念を呈し、水の補給があり、数千の兵員と数百の馬が休息可能な、この山の西麓にあったとされる広い平坦地を本陣地に比定している。現在の名古屋市緑区桶狭間の北部、名古屋市緑区桶狭間北2丁目から3丁目、そして豊明市栄町字西山にかけての付近としており、戦いの2日前に今川方先手侍大将瀬名氏俊による本陣設営が行われたとされる場所で、桶狭間古戦場保存会は名古屋市緑区桶狭間北2丁目の住宅地の一角に「おけはざま山 今川義元本陣跡」の碑石を設けている(位置)。
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