五味文彦の研究と編纂者の推定
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「吾妻鏡」の記事における「五味文彦の研究と編纂者の推定」の解説
五味文彦は1989年に著した『吾妻鏡の方法』の章「吾妻鏡の構成と原史料」において、ベースとなる筆録に二階堂行政・二階堂行光、二階堂行村、後藤基綱、中原師員、二階堂行方、中原師連を推測した。そして2000年の『増補 吾妻鏡の方法』では次の2点のアプローチも加えた。 意図的な顕彰 - 実務官僚(文筆の家)では前述の通り三善康信、三善康連、二階堂行光、大江広元である。それ以外には得宗家を除くと北条時房、平盛綱、北条実時らである。 出産記事 - 得宗家嫡流を除けば北条有時、北条政村、北条時輔、北条宗政、北条時兼と、そこまでは北条一門ということで理解出来るが一人だけ文筆の家が混じっている。貞応元年(1222年)9月21日条に、二階堂行政の孫で、後に政所執事となる二階堂行盛に子が生まれたとある。そのとき生まれたのは二階堂行忠であり、その行忠から政所執事を受け継いだのが孫の二階堂行貞である。 これに『吾妻鏡』の編纂推定年代を重ね合わせると太田時連がまず候補の筆頭として上がる。文筆の家ではもっとも露骨に顕彰されている三善康信の子孫で、永仁元年(1293年)から元亨元年(1321年)まで問注所執事であり、おそらくはその時期寄合衆でもあったろう。 次は二階堂行貞である。「ベースとなる筆録」に上がった二階堂行政、行光、そして出産記事に登場する行盛、行忠の系統・二階堂信濃家でこの時期に該当するのは行貞であり、行貞は正応3年(1290年)の行忠の没後に22歳で政所執事に就任したが、3年後の平禅門の乱の直後に罷免され、ほぼ10年後の乾元元年(1302年)に政所執事に返り咲いている。寄合衆にも同時に就任したと見なされる。 大江氏では長井宗秀が該当し、永仁3年(1295年)時点から寄合衆にその名が見える。この3人が幕府の主要ポストに顔を揃えるのは行貞が政所執事に返り咲いた乾元元年(1302年)である。 もちろん「ベースとなる筆録」には中原師員・中原師連親子が推測されており、その子孫でこの当時政権の中枢にいた摂津親致や、三善氏の矢野倫景、北条氏では金沢貞顕や北条時村の元から少なくとも史料提供は相当なされていると見られるが、編纂への関与の程度は不明である。
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