五味文彦の研究と編纂者の推定とは? わかりやすく解説

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五味文彦の研究と編纂者の推定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 09:59 UTC 版)

吾妻鏡」の記事における「五味文彦の研究と編纂者の推定」の解説

五味文彦1989年著した吾妻鏡方法』の章「吾妻鏡構成原史料」において、ベースとなる筆録二階堂行政二階堂行光二階堂行村後藤基綱中原師員二階堂行方中原師連推測した。そして2000年の『増補 吾妻鏡方法』では次の2点アプローチ加えた意図的な顕彰 - 実務官僚文筆の家)では前述通り三善康信三善康連二階堂行光大江広元である。それ以外には得宗家を除くと北条時房平盛綱北条実時らである。 出産記事 - 得宗家嫡流除けば北条有時北条政村北条時輔北条宗政北条時兼と、そこまで北条一門ということ理解出来るが一人だけ文筆の家が混じっている。貞応元年1222年9月21日条に、二階堂行政の孫で、後に政所執事となる二階堂行盛に子が生まれたとある。そのとき生まれたのは二階堂行忠であり、その行忠から政所執事受け継いだのが孫の二階堂行貞である。 これに『吾妻鏡』編纂推定年代重ね合わせる太田時連がまず候補筆頭として上がる文筆の家ではもっとも露骨に顕彰されている三善康信の子孫で、永仁元年1293年)から元亨元年1321年)まで問注所執事であり、おそらくはその時寄合衆でもあったろう。 次は二階堂行貞である。「ベースとなる筆録」に上がった二階堂行政行光、そして出産記事登場する行盛、行忠の系統二階堂信濃家でこの時期該当するのは行貞であり、行貞は正応3年1290年)の行忠の没後22歳政所執事就任したが、3年後平禅門の乱直後罷免され、ほぼ10年後の乾元元年1302年)に政所執事返り咲いている。寄合衆にも同時に就任した見なされる大江氏では長井宗秀該当し永仁3年1295年時点から寄合衆にその名が見える。この3人が幕府の主要ポスト顔を揃えるのは行貞が政所執事返り咲いた乾元元年1302年)である。 もちろん「ベースとなる筆録」には中原師員中原師連親子推測されており、その子孫でこの当時政権中枢にいた摂津親致や、三善氏矢野倫景、北条氏では金沢貞顕北条時村の元から少なくとも史料提供は相当なされていると見られるが、編纂への関与程度不明である。

※この「五味文彦の研究と編纂者の推定」の解説は、「吾妻鏡」の解説の一部です。
「五味文彦の研究と編纂者の推定」を含む「吾妻鏡」の記事については、「吾妻鏡」の概要を参照ください。

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