中世の穂坂路
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『高白斎記』によれば、戦国時代の天文12年(1543年)9月9日には、武田晴信(信玄)の信濃侵攻において、武田勢は信濃小県郡長窪城(長野県長和町)の国衆・大井貞隆を攻めるため千塚(甲府市千塚)まで出陣ており、穂坂路を通過したと考えられている。武田勢は9月10日には若神子(北杜市須玉町若神子)、12日には海の口、15日には宮ノ上、16日には前山と進軍し、長窪城を攻めている。 韮崎市中田町中條には武田勝頼の築城した新府城が所在している。天正10年(1582年)2月28日には、勝頼は織田信長・徳川家康連合軍の武田領侵攻に際して諏訪上原城を退去し新府城に入り、3月3日には新府城を放棄し、甲府城下の一条信龍屋敷(甲府市北新)で休息し、郡内へ向けて勝沼・田野へ進んでいる(『信長公記』)。勝頼はこの際にも穂坂路を通過したと考えられている。 武田氏の滅亡後、同年6月には徳川家康と北条氏直が甲斐・信濃をめぐり「天正壬午の乱」が発生し、この際にも利用されたと考えられている(「家忠日記」)。 穂坂路沿いの城砦には小尾小屋・獅子吼城があり、天正壬午の乱においては後北条方が布陣した。小尾小屋は北杜市須玉町小尾に所在し、「和田の烽火台」にあたると考えられている。獅子吼城は北杜市須玉町江草に所在し、徳川方の記録に見られる「江草小屋」に相当すると推定されている。
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