中世の穂坂路とは? わかりやすく解説

中世の穂坂路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/25 14:23 UTC 版)

穂坂路」の記事における「中世の穂坂路」の解説

高白斎記によれば戦国時代天文12年1543年9月9日には、武田晴信信玄)の信濃侵攻において、武田勢信濃小県郡長窪城長野県長和町)の国衆大井貞隆攻めるため千塚甲府市千塚)まで出陣ており、穂坂路通過した考えられている。武田勢9月10日には若神子北杜市須玉町若神子)、12日には海の口、15日には宮ノ上16日には前山進軍し長窪城攻めている。 韮崎市中田町中條には武田勝頼築城した新府城所在している。天正10年1582年2月28日には、勝頼は織田信長徳川家康連合軍武田侵攻に際して諏訪上原城退去し新府城入り3月3日には新府城放棄し甲府城下の一条信龍屋敷甲府市北新)で休息し郡内向けて勝沼田野進んでいる(『信長公記』)。勝頼はこの際にも穂坂路通過した考えられている。 武田氏の滅亡後同年6月には徳川家康北条氏直甲斐信濃をめぐり「天正壬午の乱」が発生しこの際にも利用されたと考えられている(「家忠日記」)。 穂坂路沿いの城砦には小尾小屋獅子吼城があり、天正壬午の乱においては後北条方が布陣した。小尾小屋北杜市須玉町小尾所在し、「和田烽火台」にあたると考えられている。獅子吼城北杜市須玉町江草所在し徳川方記録見られる「江小屋」に相当する推定されている。

※この「中世の穂坂路」の解説は、「穂坂路」の解説の一部です。
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