上座部の伝統において
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 11:10 UTC 版)
第三回仏典結集では、モッガリプッタ・ティッサの主導の下、こういった分析的なアプローチが強調された[要出典]。上座部内の、このアプローチを採用する部派は分別説部に従うものとして再編成・呼称された。分別説部の集団に含まれなかったのは大衆部、説一切有部、正量部であり、分別説部の『論事』(kathāvatthu)において、これらの部派は「間違った考え方」をしているとみなされている。 上座部では伝統的に、第三回仏典結集の後に分別説部は化地部、飲光部、法蔵部、赤銅鍱部の四派に分かれたと考えられている。現在の上座部仏教は赤銅鍱部に由来し、赤銅鍱部(Tāmraparṇīya)とは「スリランカの系統」を意味する。一方、化他部、飲光部、法蔵部は直接的には分別説部に由来せず、これらの部派の本来のつながりはそれぞれの律の類似性によって仮定されたものであると主張する文献もある。 分別説部は自身を正統派の上座部だとみなしていたと主張されている。 シンハラ人の伝承によれば、分別説部の名称の下での仏教はアショーカ大王の息子と信じられているマヒンダによってスリランカに伝えられた。これが起こったのは紀元前246年のことだと近代の学者に考えられている。
※この「上座部の伝統において」の解説は、「分別説部」の解説の一部です。
「上座部の伝統において」を含む「分別説部」の記事については、「分別説部」の概要を参照ください。
- 上座部の伝統においてのページへのリンク