三方及第
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/31 16:04 UTC 版)
三方楽所の51名の楽人は上芸・中芸・次芸の3階級に分けられ、上芸・中芸の者には芸料が加給される仕組みであった。この階級を決定するのが三方及第あるいは楽講とよばれる全員参加型の実技試験制度である。寛文5年(1665年)に始まり、慶応元年(1865年)まで特別な事情がないかぎり4年ごとに行われた。 楽講は、各回で調子を変えながら、壱越調・平調・双調・黄鐘調・盤渉調(天保以後は太食調も)の順に日を改めながら行われた。課目は三管(笙・篳篥・龍笛)のみで、助奏として鞨鼓・太鼓のみが演奏され、曲目はすべて左方楽(唐楽)であった。上芸・中芸のいずれを受験するかをあらかじめ決め、楽講が終わった後の入札で過半数を得れば及第である。入札は各方8名が自分の属している以外の二方の受験生に対して入札するものであるが、公平を期するために上芸者のうちその年に助奏をしなかったものが最終回の楽講の前に選ばれてさらに誓状を提出していた。試験当日になってくじ引きで曲目と演奏者の組み合わせが決定されるため、左方楽の全曲目について修練を積まねばならず、したがって楽講は雅楽の伝承と洗練に大きな役割を果たしてきた。 三方は地域別の流派のようなものであったし、その中でも家ごとに秘伝秘曲の伝承をする一種の家元制が行われていた。しかし三方及第はそうした流儀を越えて技を競い批評し合うシステムであったと考えることができ、これは日本の伝統芸能の中では特異なものである。明治になって宮内省雅楽部が組織された後も、その試験法は基本的には三方及第を踏襲したものであった。
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