ヴォノネス1世との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/08 14:31 UTC 版)
「アルタバノス2世」の記事における「ヴォノネス1世との戦い」の解説
カルマニア(現ケルマーン)とヒルカニアの総督であった父と、アルサケス氏族の王女との間に生まれ、パルティアの従属王国であったアトロパテネの王となった。フラーテス4世の暗殺、フラーテス5世の追放、そしてオロデス3世の暗殺という短期間に続いた王位の混乱の後バビロニアの反オロデス3世派によってローマ帰りの王子ヴォノネス1世が擁立されパルティア王となると、ヴォノネス1世の親ローマ、親ギリシア人ポリスの姿勢はパルティアの大貴族から激しい反発を買っていた。こうした状況の中でアルタバノス2世は反ヴォノネス1世派の支持の下でヴォノネス1世に対して反乱を起こした。 西暦10年にはパルティア王を名乗り、パルティアに2人の王が並び立つ状態となった。アルタバノス2世とヴォノネス1世の戦いは、当初ヴォノネス1世側が有利であったが、中央アジアの遊牧民の支持を得たアルタバノス2世が次第に巻き返し、西暦12年にはヴォノネス1世を追放することに成功した。しかしヴォノネス1世はアルメニア王国へ逃れてその王となったため、アルタバノス2世はアルメニアに圧力をかけてヴォノネス1世を追放させた。その後アルメニア王国の王位にはポントスの王子ゼノンを付けることになった。 ヴォノネス1世はローマ領へと逃れたが、アルタバノス2世はローマ皇帝ティベリウスと協定を結んでヴォノネス1世の政治活動を封じた。一方ヴォノネス1世との内戦の最中、バビロニアで独立勢力を築いたアニラエウスらにはその地位を正式なものとして認め、一方で潜在的脅威であった領土内のギリシア人ポリスの自治権削減を追求して国内統治体制を固めた。
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