ルーマニアの状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/02/07 07:27 UTC 版)
しかし、ルーマニアはセルビア、ギリシャとは状況が異なっていた。第一に列強の影響を強く受けざるを得なかったこと、第二にルーマニア人社会が分裂していたことであった。 第一点については、ルーマニアはロシアに地理的に隣接しており、ロシア、オスマン帝国の間で戦争が始まると常にその被害を被ることになった。そしてロシアが徐々に優勢になっていくと、両公国は度々ロシアに占領され、その影響を強く受けるようになっていった。 第二点については、両公国はオスマン帝国占領以降も限定的自治権を持っていたことでそれまでのボイエール(貴族)、僧侶らの勢力が保持されたことである。そのため、農民らは農奴と変わらない状況で収奪されていた。そして、ファアナリオティスらによる統治がそれを悪化させていた上でさらにギリシャ人、ユダヤ人らが商業活動を行ったことでさらに苦しめられていた。ルーマニアで中間層を担うべき商人らはギリシャ人、ユダヤ人らに独占されていた。19世紀に入ってようやくルーマニア人らの中間層が形成されたが、これもボイエールと農民層の間で有効な活動ができなかった。 そのため、ルーマニア人らのナショナリズムはゆっくりとした歩調で育って行った。オーストリア占領下のトランシルヴァニアではルーマニア人僧侶が活動を行い、両公国に駐屯したロシア軍の影響でフランス文化の影響を受けた。そして18世紀に入ると両公国の権力者層を形成していたギリシャ人らが西欧の啓蒙思想を導入したことはルーマニア人らの文化的啓蒙に役立ち、さらにルーマニア人らの民族意識も高めることになった。
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