ランペルール大賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 15:55 UTC 版)
「グラディアトゥール賞」の記事における「ランペルール大賞」の解説
1861年に競走名は「ランペルール大賞(Grand Prix de l'Empereur=皇帝大賞)」となり、距離はさらに200メートル延長となって6200mとなった。この距離はその後、約1世紀の間維持された。イギリスではかつて4マイル(約6400メートル)クラスの競走が当たり前のように行われていたが、こうした競走は既に19世紀の初め頃には廃れていたので、20世紀になっても6000メートル超で行われる本競走はフランスのみならずヨーロッパの中でも際立った長距離レースだった。一方、3歳馬のためにはパリ大賞や皇太子賞(現ロイヤルオーク賞)などの高額賞金競走が新設された。1862年にジョッケクリュブ賞(フランスダービー)とロイヤルオーク賞に勝ったスーベニール(Souvenir)は、翌1863年にランペルール大賞の勝馬となった。 しかし、フランス国内で好成績を収めた競走馬は、より高い賞金を求めてイギリスへ遠征する傾向があった。これらの遠征はほとんど成果をあげられなかった。逆にパリ大賞典など国内の高額賞金競走をイギリス馬に勝たれる始末だった。 こうした状況を遂に打破したのが、ラグランジュ伯の持馬グラディアトゥールである。グラディアトゥールは前述のエルビーヌの半弟で、父は1857年の優勝馬モナルクである。グラディアトゥールはフランスに念願のイギリスダービー制覇をもたらしたばかりか、クラシックレースをすべて勝って、英国史上2頭目の三冠馬となった。フランス人は、50年前にナポレオンが敗れたワーテルローの戦いの仇をとったと喝采をあげた。イギリス人にとっては70回を超すダービーの歴史の中で初めて外国馬の優勝を許してしまった。グラディアトゥールはその後、フランスに凱旋してランペルール大賞を勝った。 馬種改良奨励協会は、この名馬を記念して1869年からランペルール大賞の名を「グラディアトゥール賞」と改めることにした。
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