ラチブシュ公
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/16 22:54 UTC 版)
「ミェシュコ1世プロントノギ」の記事における「ラチブシュ公」の解説
ミェシュコ1世とボレスワフ1世は1163年から1173年までヴロツワフ公国を共同統治していた。当初、シロンスクの主要な都市には時のポーランド大公である叔父ボレスワフ4世(巻毛公)の影響力が残存しており、彼ら兄弟の支配力は広い地域に及ぶものでは無かった。兄弟は1165年、ボレスワフ4世がバルト・プロイセン人に対する十字軍に忙殺されている隙に、これらの諸都市を再征服した。 しかし、まもなくミェシュコ1世は自分個人の公国を所有することを望むようになった。この原因の一端には、兄が国家統治を独占してミェシュコ1世をほとんど国政に参加させないようになったことがあると思われる。1172年、ミェシュコ1世は甥でボレスワフ1世の長男であるヤロスワフを味方につけて兄に対して公然たる反乱を開始した。ヤロスワフは自分の産んだ息子達だけに公国の相続権を与えようとした継母クリスティーネの策謀によって修道士にされていた。反乱は成功を収め、ボレスワフ1世はドイツのエアフルトに亡命した。まもなくフリードリヒ1世の介入でボレスワフ1世はシロンスクに帰国したが、ミェシュコ1世(チェシンとラチブシュ)とヤロスワフ(オポーレ)に領土を分割することを余儀なくされた。
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