マルグリットとの争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 06:34 UTC 版)
「ジャンヌ・ド・コンスタンティノープル」の記事における「マルグリットとの争い」の解説
1213年、マルグリットはアヴェーヌ領主ブシャールと結婚した。尊厳王は2人の結婚を偏見のまなざしで見ていた。彼はローマ教皇インノケンティウス3世に、ブシャールは副助祭として叙階の秘蹟を受けていると教えた。1215年、第4回ラテラン公会議で、教皇は結婚の無効に同意した。しかしマルグリットとブシャールは無効を無視した。彼らはアルデンヌ地方の、リュクサンブール公ワレラン3世(fr)の庇護下にあるユファリーズ城へ逃亡した。この地で、マルグリットとブシャールの間に2人の息子たち、ジャン(のちにエノー伯ジャン1世となる)とボードゥアンが生まれた。1219年、ジャンヌに対抗してフランドルを騎行中、ブシャールは逮捕された。2年後、妻と離婚し彼女から離れることに同意して、彼は解放された。1223年の終わりに、マルグリットはギヨーム・ド・ダンピエールと結婚した。 別の紛争がジャンヌの統治を揺るがした。1224年、ブルッヘ城代の位を自らの顧問アルヌール・オーデルナルデのため手に入れようと努力した。ブルッヘ城代は、ブーヴィーヌの戦いの後に尊厳王がジャン・ド・ネールを任命していた。これは過剰な要求だとして紛争になった。この一件は2人の騎士たちによって判断が下された。ジャンヌはムランで開かれた尊厳王の宮廷で王と面会し、このことは王の仲間によって判断させられないと訴えた。王は最終的にジャン・ド・ネールこそが城代にふさわしいと認め、ジャンヌに打撃を与えた。
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