マネーサプライ論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 04:19 UTC 版)
岩田の名を有名にしたのは、日本銀行の翁邦雄らとの間に起こした「マネーサプライ論争(岩田-翁論争/翁-岩田論争)」である。日本銀行が、従来からマネタリーベース(ハイパワードマネー)の能動的な意味での操作性を否定し(「積み進捗率」の幾分の調整については可能とした)、なかんずくマネーサプライの管理を否定し続けたのに対し、岩田はその操作が可能であることを主張し、80年代末のバブル膨張とその後のバブル崩壊についての責任を逃れようとする日本銀行を批判した。このように、マネーサプライは操作可能だという岩田と、操作できないという翁による論争は、『週刊東洋経済』(東洋経済新報社)誌上で行なわれた。植田和男は、「短期では難しいが、長期では可能」という「裁定」を下したが、ジャーナリストの川北隆雄によれば、植田の「裁定」は「学界や民間エコノミストなどからはあまり支持されたとはいえない」という。 マネーサプライ論争における岩田の主張は、 マネタリーベース(ハイパワードマネー) × 信用乗数(貨幣乗数) = マネーストック(マネーサプライ) という恒等式において、左辺のマネタリーベースから右辺のマネーサプライへの因果関係があり、かつ信用乗数は比較的安定しているから、日本銀行がハイパワードマネーを増やせばマネーサプライは増える、というものであった。 一方、翁の主張は、日本銀行が所要準備の後積みを行っているという観察事実に基づくものであり、岩田が用いた上述の恒等式において、信用乗数には乗数の意味はなく、マネーサプライとマネタリーベースとの事後的な比率に過ぎない、とした。その上で、市中銀行の貸出し態度によってマネーサプライの大きさが決まり、それに見合うように日本銀行はマネタリーベースを受動的に供給するしかなく、マネーをコントロールすることはできない、と主張した。 岩田の主張のうち、信用乗数の安定性については、1992年頃には約13だった信用乗数が、以後大きく低下し続けている(2000年以降は10を切り、さらに2001年には8を切り、2012年には6を切った)。その後、実際に大規模な金融緩和による前代未聞のマネタリーベースの増加が黒田日銀によってなされた。
※この「マネーサプライ論争」の解説は、「岩田規久男」の解説の一部です。
「マネーサプライ論争」を含む「岩田規久男」の記事については、「岩田規久男」の概要を参照ください。
マネーサプライ論争(岩田-翁論争/翁-岩田論争)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 23:31 UTC 版)
「日本の経済論争」の記事における「マネーサプライ論争(岩田-翁論争/翁-岩田論争)」の解説
1980年代後半のバブル経済進行の過程において、再びマネーサプライの管理を巡って1990年代前半には、岩田規久男ら経済学者と翁邦雄ら日銀官僚との間で大論争が巻き起こることになるのであった。従来からマネタリーベースの能動的な意味での操作性を否定し(「積み進捗率」の幾分の調整については可能とした)、なかんずくマネーサプライの管理を否定し続ける日銀理論に対し、岩田はその操作が可能であることを主張し、日本銀行側を批判した。東洋経済誌上での激しい押し問答は、量的指標は操作可能だという岩田と、操作できないという翁に対し、植田和男が短期では難しいが、長期では可能という「裁定」を下すことで一応の決着をみた。
※この「マネーサプライ論争(岩田-翁論争/翁-岩田論争)」の解説は、「日本の経済論争」の解説の一部です。
「マネーサプライ論争(岩田-翁論争/翁-岩田論争)」を含む「日本の経済論争」の記事については、「日本の経済論争」の概要を参照ください。
- マネーサプライ論争のページへのリンク