マケドニアの銀楯隊とは? わかりやすく解説

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マケドニアの銀楯隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 10:17 UTC 版)

銀楯隊」の記事における「マケドニアの銀楯隊」の解説

この歩兵精鋭3000からなる部隊は銀の薄板張ったと胸甲を装備していたため、このように呼ばれていた。彼らは元はヒュパスピスタイ呼ばれた近衛歩兵部隊であった。彼らはパルメニオンの子ニカノル指揮にあった。彼らは、インドにて軍の指揮権一部ペルシア人渡った時、「銀楯隊」と名前を変えたアリアノス、『アレクサンドロス大王東征記』、11)。 アレクサンドロス3世の死後に開かれたトリパラディソスの軍会でスシアナ太守アンティゲネステウタモス指揮下に入った摂政ポリュペルコン先代摂政アンティパトロスの子カッサンドロス対立した時はポリュペルコンの命でエウメネス従った当時銀楯隊兵士のほとんどは60歳超えていたが、マケドニア軍最強とも言える強さ誇っていた。彼らはパラエタケネ、ガビエネの二つ会戦において、アンティゴノス歩兵部隊蹴散らすなど存分に活躍したガビエネの戦いにてアンティゴノスにより輜重隊奪われ、ここに配されていた彼らの家族財産を含む荷物アンティゴノスの手落ちた。そこでアンティゲネスらは、輜重隊引渡し引き換えエウメネスアンティゴノス引き渡し降伏した降伏直後アンティゴノス銀楯隊指揮権を持つアンティゲネスを捕え、これを殺害した銀楯隊兵士精強だが反抗的なため手に負えない悟ったアンティゴノスは、すぐに彼らを辺境守備名目僻地へと送った。アラコシア太守シビュルティオス元に送られた彼らは、そこで生涯終えた

※この「マケドニアの銀楯隊」の解説は、「銀楯隊」の解説の一部です。
「マケドニアの銀楯隊」を含む「銀楯隊」の記事については、「銀楯隊」の概要を参照ください。

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