ポティダイア包囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 21:55 UTC 版)
「ポティダイアの戦い」の記事における「ポティダイア包囲」の解説
その後アテナイはポティダイア近くの地峡に防壁を築いて守備隊を置いた。パレネ側が無防備であると知ったアテナイ本国からフォルミオン指揮の下でパレネへ1,600人の重装歩兵が送られ、彼らはポティダイア側に防壁を築き、これによってポティダイアは南北から塞がれ、さらに海からは艦船で封鎖されることになった。一方、敵に挟まれたアリステウスはポティダイアを脱出してカルキディケに向かい、戦いを続行した。 コリントスはスパルタにペロポネソス同盟諸国を召集し、対アテナイ宣戦を訴えた。アテナイからの使節および和平派のスパルタ王アルキダモス2世の説得にもかかわらず、紀元前432年にスパルタは対アテナイ宣戦を決定し、アテナイもそれに応じたことによってペロポネソス戦争は開戦の運びとなった。 一方、ポティダイア包囲は長期化し、これによる国庫の消耗(この包囲戦にアテナイは年2,000タラントンを消費した)、さらに開戦当初にアテナイで流行した疫病にアテナイは苦しんだ。しかし紀元前430年の冬の時点にはポティダイアの耐久力は限界に達しており(食糧不足によって人肉を食べるものさえ現れるほどであった)、アテナイに降伏した。
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