プフェファーコルンとの論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/15 15:37 UTC 版)
「ヨハネス・ロイヒリン」の記事における「プフェファーコルンとの論争」の解説
1511年、ロイヒリンのヘブル語研究は論争の対象になった。ユダヤ教からカトリックに改宗したドミニコ会修道士ヨハンネス・プフェファーコルンがヘブル語の書籍に対する批判キャンペーンを始めると、それに対抗したユダヤ人がマインツ大司教ゲンミンゲンの助けでプフェファーコルンによる書籍没収を調査するタルムード調査委員会が設立され、ロイヒリンも委員となった。ロイヒリンとプフェファーコルンは論争を始め、エラスムスなども論争に参加した。ウルリヒ・フォン・フッテン、ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパといったドイツのユマニストはロイヒリンを擁護、ドミニコ会に対抗した。ロイヒリンは1513年に異端として告発され、宗教裁判所でロイヒリンは激しく抗弁した。はじめ有罪のちに無罪を言い渡されさらにそれから紆余曲折した。 ロイヒリンはユダヤ教を擁護したことでも知られるが、論争以前の1505年の『回状』でユダヤ人は日々、イエスの御身において神を侮辱し冒涜している、イエスを罪人、魔術師、首吊り人と呼んで憚らず、キリスト教徒を愚かな異教徒と見下していると説教した。また、論争においてもプフェファーコルンに対して「彼は先祖たるユダヤ人の精神のあり方をそのままに、嬉々として不敬の復讐に打ってでた」と述べている。
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