フランス艦隊勝利の要因
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この戦いでフランスが勝利した要因の1つが、フランス艦隊が両国が開戦する前に閩江を遡っていたということである。和平交渉を進めていた清朝は、フランス艦隊が閩江を遡っても攻撃を行わなかったため、クールベは無傷のまま艦隊を羅星塔まで進めることができたのだ。 2番目の重要な要因が、清朝の北洋艦隊向けにドイツで建造されていた近代戦艦定遠・鎮遠がこの戦争中清朝に引き渡されなかった事だ。清朝のこの新造戦艦がクールベの艦隊のどの艦船よりも強力であったため、開戦が差し迫ってきた1883年12月、フランスはドイツ政府に対して、もしも清朝とフランスが開戦した場合に清朝に戦艦を引き渡さないように要請した。それを受けてドイツ政府は、清仏戦争の間ずっと清朝に対して様々な言い訳を並べては3隻の戦艦を港に留め置き、結局引き渡されたのは戦後の1885年7月であり、北洋艦隊に合流したのは1885年10月のことだった。 一部の中国人の歴史家は、清朝の完敗の原因を、その指揮系統の不統一にあると断じた。 当時の清朝の地域艦隊・地域軍は、それぞれの領袖がその地域の予算や私財を投じて作り上げており、この戦力は同時に中央の宮廷での影響力の源泉でもあったため、各艦隊の司令官は自分たちの戦力が戦闘によって損耗することをひどく嫌った。そのため福建水師は、再三の増援要請にもかかわらず、清朝の他の三艦隊(北洋水師・南洋水師・広東水師)からの救援がほとんど受けられなかったのである。 張佩綸からの増援要望が上がっても、西太后からの直接命令が下っても、他の三艦隊は福建水師に救援を差し向けることを断った。広東水師からは、1882年にトンキン湾でのフランス軍の動向を調査するために福建水師から広東水師に貸し出されていた飛雲と済安の2隻が両広総督張之洞によって福州に送り返された。ただし、広東水師の船からは1隻も出していない。李鴻章は北洋艦隊から2隻を福州に差し向けるようにという命令に逆らっているし、浙江巡撫劉秉璋も軍艦超武を福州に送ってほしいという張佩綸からの要請を拒絶している。
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