ニーダーローデンバッハとオーバーローデンバッハとの宗教分離
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「ローデンバッハ (マイン=キンツィヒ郡)」の記事における「ニーダーローデンバッハとオーバーローデンバッハとの宗教分離」の解説
ニーダーローデンバッハとオーバーローデンバッハとの教会分離は、16世紀から17世紀への変わり目に起きた。1596年までオーバーローデンバッハの教会組織は、ニーダーローデンバッハ教区の支教会であり、1527年からミヒャエル・ヴァインブレンナーの働きによってプロテスタント化されていた。この教会組織は、その後短期間ゾンボルン教区に移されたが、1597年には、理由は不明だが、グロースクロッツェンブルク教区に移された。 ゾンボルン、次いでグロースクロッツェンブルク教区への移管に対するマインツのペトロ修道院の関与は、推測の域を出ない。当然ながら「対抗宗教改革」の類が想像される。しかし、ペテロ修道院とハーナウ伯との間の、経済政策をはじめとする様々な面での相違を無視することはできなかった。こうした事情から修道参事会は、「我々の村とハーナウ伯の村とのやり方の違いを明らかにするために、我々が領するオーバーレーデンバッハとハーナウ領のニーダーローデンバッハとの結びつきを遮断し、制限する」 (Paap 80) とした。 しかし、宗教上最も重要なことは、2つの村の宗教的分離だけではなかった。ニーダーローデンバッハでも、プロテスタント系住民の中で宗教的分裂が進行していた。1686年から小規模な福音主義ルター派教会がこの村に設立されたことが証明されている。その起源はこの村への移民に起因している。彼らは1689年に、現在のキルヒ通り4番地、かつての領主の上級営林署に教会兼学校を設け、当時では決して当たり前のことではなかった自由でオープンな宗教行為を行う権利を有していた。1818年のハーナウ連盟によってこれらの教会は大きく改革された組織となった。
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