ツグルク‐ちょう〔‐テウ〕【ツグルク朝】
トゥグルク朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/27 14:09 UTC 版)
トゥグルク朝(トゥグルクちょう、Tughluq dynasty)またはトゥグルク・シャーヒー朝(ペルシア語: تغلق شاهیان 転写: Tuġlaq šahian、英語: Tughluq Shahian)は、デリー・スルターン朝の3番目の王朝であるトルコ系のイスラーム王朝(1320年 - 1413年または1414年)。首都はデリー(一時的にダウラターバード)。北インド、デカン、南インドを支配した。トゥグルク朝はインドにおけるイスラーム王朝の統治を固めるために様々な政策を実施した(官僚機構の整備、経済政策、司法行政、遷都など)。
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.132
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.113
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.135
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.114
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.138-139
- ^ a b c d 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.115
- ^ a b ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.139
- ^ a b チャンドラ『中世インドの歴史』、p.108
- ^ a b ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.140
- ^ a b c d e ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.158
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.141
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.142
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.145
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.146
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.147
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.148
- ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.116
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.116
- ^ a b c ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.149
- 1 トゥグルク朝とは
- 2 トゥグルク朝の概要
- 3 歴史
- 4 インド統治政策
- 5 関連文献
- 6 関連項目
トゥグルク朝
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「デリー・スルターン朝」の記事における「トゥグルク朝」の解説
1320年、ハルジー朝の武将ギヤースッディーン・トゥグルクがデリーを制圧、デリー・スルターン朝の3番目の王朝であるトゥグルク朝を開いた。彼自身はベンガル地方に遠征し、息子にはデカン、南インドを任せて、カーカティーヤ朝とパーンディヤ朝を滅ぼし、広大な版図を獲得した。 次のムハンマド・ビン・トゥグルクの治世、王子時代に獲得したデカン、南インドの広大な領土を統治をするためにデリーからダウラターバードへと遷都した。だが、この遷都は結果的に失敗し、デリーへと再遷都後、各地で反乱が相次いだ。この過程で、マドゥライ・スルターン朝、ヴィジャヤナガル王国、バフマニー朝、ベンガル・スルターン朝が誕生した。 1351年、従兄弟のフィールーズ・シャー・トゥグルクが王位を継承すると、先代から続く混乱は収まり、内政面では大きな功績をあげた。だが、ベンガル地方への遠征は失敗するなど、喪失した領土は奪還できなかった。 1389年、フィールーズ・シャーが死亡すると、一族の間で王位をめぐる争いが発生し、1398年にはティムールの侵攻があって、デリーが略奪・破壊された。また、その前後にジャウンプル・スルターン朝、マールワー・スルターン朝、グジャラート・スルターン朝が成立した。
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