ダライ・ラマ11世
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ダライ・ラマ11世ケードゥプ・ギャツォ(チベット文字:ལཚུལ་ཁྲིམས་རྒྱ་མཚོ་、1838年11月1日 - 1856年1月31日)は、チベット仏教ゲルク派の有力な転生系譜で観音菩薩の化身とされる勝者王(ダライ・ラマ)の11代目[注釈 1]。ケードゥプ・ギャムツォ、ケードゥブ・ギャムツォ、ケードゥプ・ギャンツォとも表記される。東部チベットのガルタル(ガサール、現在は中華人民共和国四川省カンゼ・チベット族自治州道孚県)の生まれ[1]。父はツェタン・ドンドゥップ、母はユンドゥン・ブーティ[1]。1842年から死去する1856年までのあいだ、ガンデンポタンを行政府とするダライ・ラマ政権の首長の座にあった[注釈 2]。22歳に達する前に亡くなった4人のダライ・ラマ(9世〜12世)のうちの1人である。
注釈
- ^ ダライ・ラマ(ཏཱ་ལའི་བླ་མ་) は、チベット仏教ゲルク派の高位のラマであり、チベット仏教で最上位クラスに位置する化身ラマの名跡である。その名は、大海を意味するモンゴル語の「ダライ Далай,ཱ་ལའི」と、師(上人)を意味するチベット語の「ラマ བླ་མ་」とを合わせたものである。デエ(2005)p.127
- ^ ガンデンポタンとは、1642年にダライ・ラマを国主としてチベットに成立したダライ・ラマ政権の行政機関のことである。
- ^ 「ギャツォ རྒྱ་མཚོ་」とはチベット語で「海」をあらわす語で、モンゴル語の「ダライ Далай」に相当する。
- ^ スルカン将軍の勇戦は長い間チベット西部住民の語り草となった。デエ(2005)p.186
- ^ 調停により、双方の友好関係と国境を確認し、通商の援助などについて合意した。ここにおいてチベットは単独で国際問題を解決したこととなる。デエ(2005)p.187
- ^ カシャは、ダライ・ラマ7世が1751年に発足させた、チベットにおける内閣制度。大臣がそれぞれの責任範囲内でダライ・ラマを補佐し、大臣の合議で政治的決定をおこなう。この制度は現在でも利用されている。ルヴァンソン(2009)p.28
- ^ チベットからネパールへの年貢は1953年までつづけられた。デエ(2005)p.190
- ^ 木村同書(1982年版)では58年版より婉曲的な表現が用いられ、有力貴族間の権力争いの犠牲になった可能性が高いとしている。木村(1982)。
出典
- ^ a b c d e f g h i j 「歴代ダライ・ラマ法王」ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
- ^ a b c デエ, 今枝訳(2005)pp.179-185
- ^ a b c d e f g h 『チベットの歴史と宗教』(2012)pp.73-75
- ^ a b c d デエ, 今枝訳(2005)pp.185-187
- ^ a b c d e f g h i デエ, 今枝訳(2005)pp.187-189
- ^ a b c d デエ, 今枝訳(2005)pp.189-190
- ^ a b デエ, 今枝訳(2005)p.394
- ^ 小松原(2005)p.202
- ^ a b c d e デエ, 今枝訳(2005)pp.191-194
- ^ Stein(1972)p.269
- ^ 木村(1958)
- 1 ダライ・ラマ11世とは
- 2 ダライ・ラマ11世の概要
- 3 参考文献
- 4 関連項目
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