タンジャーヴール・マラーター王国への圧力
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「チャンダー・サーヒブ」の記事における「タンジャーヴール・マラーター王国への圧力」の解説
さらに、チャンダー・サーヒブはこの勝利に乗じて、同年4月にはタンジャーヴール・マラーター王国の首都タンジャーヴールを包囲し、1739年以降はさらに圧力をかけた。 同年2月、チャンダー・サーヒブはタンジャーヴール・マラーター王シャーフージー2世に対し、フランス東インド会社にカーライッカールを割譲するように要求し、同年4月に拒否されたものの、7月にはこの地を割譲した。 そのため、シャーフージー2世はナーガパッティナムのオランダ東インド会社やセント・デーヴィッド要塞のイギリス東インド会社に接近して助力を求めたが、失敗に終わった。チャンダー・サーヒブはこの企みを知り、タンジャーヴール・マラーター王国は侵攻した。シャーフージー2世はマラーター王国に救援の手紙書いたが間に合わず、首都タンジャーヴールは落とされ、シャーフージー2世を廃位した。 タンジャーヴールはチャンダー・サーヒブの支配下にあったが、1740年になってようやくシャーフージーがマラーター王国に送った援軍要請により、ナーグプルのボーンスレー家が大軍を引き連れてやってきた。その軍勢がカルナータカ太守の領土に侵入すると、チャンダー・サーヒブはその援軍に向かった。 同年5月20日、チャンダー・サーヒブは太守ドースト・アリー・ハーンとともに、ダーマルチェルヴでマラーター軍と戦った(ダーマルチェルヴの戦い)。だが、太守は殺害され、チャンダー・サーヒブは戦場から逃げた。 ドースト・アリー・ハーン殺害後、チャンダー・サーヒブはその息子サフダル・アリー・ハーンとの間で太守位をめぐって争ったが、後者がラグージー・ボーンスレーの支持を得て、11月16日に新太守となった。一方、チャンダー・サーヒブへと逃げ、ティルチラーパッリに籠城したが、1741年初頭にティルチラーパッリ包囲戦で捕虜になり、マラーター王国の首都サーターラーへと送られた。
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