スィースターン・バルーチェスターン州
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スィースターン・バルーチェスターン州(スィースターン・バルーチェスターンしゅう、ペルシア語: استان سیستان و بلوچستان; Ostān-e Sīstān-o Balūchestān)は、イランの州(オスターン)である。イラン南東部にあってパキスタンおよびアフガニスタンと国境を接する。州都は人口42万のザーヘダーン。面積は181,600km²でイラン第2位。人口は210万。
- ^ イランにインド支援の港 中央アジアに直通路、影響力強める中国牽制も産経新聞ニュース(2017年12月3日)
- 1 スィースターン・バルーチェスターン州とは
- 2 スィースターン・バルーチェスターン州の概要
- 3 行政区分
- 4 経済
- 5 関連項目
スィースターン
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「スィースターン・バルーチェスターン州」の記事における「スィースターン」の解説
スィースターン(ペルシア語: سیستان)はイラン南東部とアフガニスタン南西部の国境地帯であり、イラン領のスィースターン・バルーチェスターン州の一部とアフガニスタンのニームルーズ州の一部から構成される。 ビーストゥーンおよびペルセポリスに碑文では、スィースターンはダーラヤワウ大王の東方領域であると記されている。先述のようにスィースターンの名はサカ族に由来する。サカ族はアーリア人の支族で、紀元前128年にこの地域の支配権を握った。現在のスィースターンはサカ族支配地域の極西部であった。スィースターンに住んだサカ族はアルシャク朝期(紀元前63年 - 220年)にパンジャーブへと放逐された。 サーサーン朝から初期イスラーム期まで、スィースターンは相当に繁栄したようである。スィースターンがサーサーン朝の統治下に入ったのはアルダシール1世の時である。スィースターンの地はゾロアスター教との関わりが非常に強い地であり、サーサーン朝期にはハームーン湖(英語版)(Daryācheh-ye Sīstan)はゾロアスター教徒の2大巡礼地のうちの1つであった。ゾロアスター教伝承において、ハームーン湖はゾロアスターの種の保持者である。これは世界の最終的刷新の直前に3人の処女が湖に入り、それぞれが世界の最終的刷新において人類の救世主となるサオシュヤントを生むというものである。スィースターンにおける最も著名な考古学遺跡にクーヘ・ハージェフ(英語版)(ペルシア語: کوه خواجه - Kuh-e Khvājeh)があるが、これはハームーン湖の中央に島となっている丘である。その後644年、サーサーン朝は最終的に崩壊し、アラブ・イスラーム勢力下に入った。 ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファールが支配者となり、のち数世紀にわたってこの地域を支配するサッファール朝(861年 - 1003年)を築いた。サッファール朝、サーマーン朝、ガズナ朝、セルジューク朝などの諸王朝は、その期間すべて本地域を統治した。叙事詩シャーナーメでは、スィースターンはザーブリスターンと呼ばれ、作者フェルドウスィーはザーブリスターンを神話的な英雄王ロスタムの故地として記述している。これは当地域の街ザーボル(英語版)から取ったもので、ザーボルは近代に至るまでスィースターンの中心都市であった。 のちモンゴル帝国の侵入があり、大きな損害を受ける。1508年、サファヴィー朝のシャー・イスマーイール1世がスィースターンを征服したが、ナーディル・シャーの時期には再び混乱に陥っている。
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