カロリング朝
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カロリング朝(カロリングちょう、独: Karolinger、仏: Carolingiens)は、メロヴィング朝に次ぐフランク王国2番目の王朝。宮宰ピピン3世がメロヴィング朝を倒して開いた。名称は同家で最も著名なカール大帝(ピピン3世の子)にちなむ[2]。なお、「カロリング」は姓ではなく「カールの」という意味である。当時のフランク人には姓はなかった。
- ^ 元図上の青色の凡例に「小ピピン死没時のフランク王国(758年)」とあるが768年の誤り。福井(編)の山川世界各国史『フランス史』(2001)の年表を参照した。図の下につけた日本語凡例では図の主旨を汲んで「カール即位時のフランク王国」とした。
- ^ Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
- ^ イスラム勢力に対抗するためというのは通説的な見解。『世界歴史大系 フランス史1』での佐藤彰一(2001)によれば、カール・マルテルの積極的な軍事行動が長距離移動に適した騎兵軍の創設を促したという。
- ^ ピレンヌによれば、教皇は当時イタリア半島を脅かしていたランゴバルドに対してフランク王国が牽制を加えてくれるよう要請したらしい。カール・マルテルはしかし、イスラム教徒へ対抗するためにランゴバルド王の協力を必要としていたので、これには消極的であったという。
- ^ 塗油の儀式は西ゴート王国の慣行から取り入れられたものである(『西洋中世史〔上〕』p.24)。「西ゴート王国」も参照。
- ^ 勝田有恒, 森征一 & 山内進 2004, p. 70.
- ^ 五十嵐修 2001, pp. 43–45.
- ^ この時カール大帝はアウストラシア北部・ネウストリアなどの王国北部を、カールマンはアウストラシア南部・ブルグント・アレマニアなど王国南部を領した。堀越孝一(2003)『新書ヨーロッパ史・中世編』によれば、カール大帝はランゴバルド王の娘ゲルペルカと結婚したが、おそらくそれはカールマンへの牽制の意味があったという。カールマンが死ぬと、カール大帝はゲルペルカと離婚した。後世になるとゲルペルカをカールマンの妃とする説話が作られたという。それに対し五十嵐修 (2001)はカールマンの妃をゲルベルガとし、カールの妃であったランゴバルト王女は名称不明としている。
- ^ ランゴバルド討伐の際ローマの復活祭に出席したカール大帝はヴェネツィア・スポレート・ベネヴェントなどを新たに教皇に寄進することを約束した。しかし、この約束は履行されなかった。ランゴバルド人であるベネヴェント公は東ローマ帝国と結びついてイタリアにおける皇帝の代理人として認められた。カール大帝はしばしばベネヴェント公国を攻撃したが、宗主権を完全に及ぼすことはついにできなかった。
- ^ たとえばカール大帝は聖像破壊運動を排斥した787年のニカイア公会議を偶像崇拝を認めたとして、『カールの書』やフランクフルト教会会議を通じて批判するなど、キリスト教の教義問題にも介入する姿勢を見せた。このニカイア公会議によって実際に確認されたことは、聖像への「尊敬」はそこに描かれた聖人へ向けられたものであるとし、それは神にのみ向けられるべき「尊崇」とは区別されるため、容認されるということであった(尚樹啓太郎 1999, p. 387、クラウス・リーゼンフーバー 2003, pp. 133–134)。また802年の一般巡察使勅令などで聖職者の腐敗を厳しく戒め、その倫理性を高めようとしている。すなわち国王巡察使は伯の地方行政を監視するとともに、一面で聖職者の風紀についても改善を目指す職務を求められていた
- ^ R・W・サザーン 2007, pp. 196–197.
- ^ その後880年のリブモン条約によってロートリンゲン全域は東フランク王国の支配下に帰した。
- ^ コデックスとは、4世紀末ごろから使われだした、従来の巻物に代わるページと折り丁を持つ記憶媒体の新しい形態で、より今日の書物に近いものである。巻物が口述筆記と音読を主とするものであったのに対し、コデックスの一般化によって黙読と欄外注の使用など新しい筆記形態が登場し、中世は書物を重要な文化要素とするようになった。西ヨーロッパでは、13世紀ごろには黙読が一般化した。
- 1 カロリング朝とは
- 2 カロリング朝の概要
- 3 歴史
- 4 カロリング・ルネサンス
- 5 参考文献
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