シハーム・シュライテフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 02:16 UTC 版)
シハーム・シュライテフ (Siham Shraiteh; 1956年または1957年- ) は、1978年7月にレバノン共和国の首都ベイルートで起こった拉致事件(レバノン人女性拉致事件)の被害者[1]。「日本で仕事がある」といわれて騙され、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に連行された[2]。ムスリマ(イスラム教徒)。拉致時点での年齢は21歳。いったん救出されたがイスラームの教えにしたがって北朝鮮に戻り、アメリカ人脱走兵のジェリー・パリッシュの妻となって3人の子を育てた[2]。
注釈
- ^ 石高の調査によれば、月給は1,300米ドル(レバノン国内報道では1,500米ドル)で3年契約、彼女たちはパスポートと前金として3.000米ドルを受け取ったという[3]。パスポートは北朝鮮到着後に没収された[5]。
- ^ スパイ・キャンプには、フランス人3人、イタリア人3人、オランダ人2人を含む中東・欧州出身の若い女性28人が集められ、柔道、テコンドー、空手、盗聴技術などの指導がほどこされていたという[2][5]。
- ^ 「救う会」が2010年に入手した平壌市民200万人の2004年発給のデータのなかに、シハームが掲載されており、民族欄には「レバノン」とある[12]。ナヒ・パリッシュ、マイケル・パリッシュの名もあり、米国人と記載されているが、リッキーの名がなかった[12]。なお、このデータには横田めぐみ、曽我ひとみの名が記載されていることでも注目されている[12]。
- ^ アノーチャは1989年4月、ドイツ人と再婚するために立石里のアパートを離れた[13]。
- ^ シハームに反感を感じたジェンキンスたちは、彼女のことを皮肉をこめて「人民班長(インミンパンジャン)」と呼んだという[11]。
出典
- ^ a b c d e f g h “救う会TV第9回「金正日の拉致指令-1978年に起きた世界規模の拉致」”. 救う会全国協議会ニュース. 北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会 (2020年6月5日). 2022年4月15日閲覧。
- ^ a b c “島田洋一救う会副会長の米議会下院公聴会への提出文書(日本語訳)”. 救う会全国協議会ニュース. 北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会 (2006年6月5日). 2022年4月15日閲覧。
- ^ a b c d e f 石高(1997)pp.124-126
- ^ a b 高世(2002)pp.198-200
- ^ a b c d e f g h i j k l “フランス人、イタリア人、オランダ人拉致被害者に関する有力情報”. 救う会全国協議会ニュース. 北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会 (2006年3月10日). 2022年4月15日閲覧。
- ^ a b 高世(2002)pp.200-203
- ^ a b c d “ムントハ・シャハディ・ハイダール 日本で仕事が-娘の夢に付け入った北朝鮮”. 国際会議「北朝鮮による国際的拉致の全貌と解決策」全記録. 北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会 (2006年3月11日). 2022年4月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 石高(1997)pp.126-129
- ^ a b c d e ジェンキンス(2006)pp.111-113
- ^ ジェンキンス(2006)pp.292-298
- ^ a b c d e f g h ジェンキンス(2006)pp.163-168
- ^ a b c “救う会が入手していた平壌市民データについて”. 救う会全国協議会ニュース. 北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会 (2011年11月17日). 2022年4月15日閲覧。
- ^ ジェンキンス(2006)p.177
- ^ a b c ジェンキンス(2006)pp.168-171
- ^ ジェンキンス(2006)p.200
- 1 シハーム・シュライテフとは
- 2 シハーム・シュライテフの概要
- 3 脚注
- 4 外部リンク
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