悪徳の栄え事件
サド裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 07:24 UTC 版)
1961年、わいせつ文書販売および同所持の容疑で、現代思潮社社長石井恭二と共に在宅起訴され、以後9年間に亘りいわゆる「悪徳の栄え事件」の被告人となった。第1回公判は8月10日。埴谷雄高・遠藤周作・白井健三郎が特別弁護人、大岡昇平・吉本隆明・大江健三郎・奥野健男・栗田勇・森本和夫などが弁護側証人となった。澁澤はこの裁判について「勝敗は問題にせず、一つのお祭り騒ぎとして、なるべくおもしろくやる」との方針を立てていたため最初から真剣に争う気がなく、「寝坊した」と称して裁判に遅刻したことまであったため、弁護側から怒りを買うことがあった。1962年10月26日に東京地裁で無罪判決が出たが検事控訴で、1963年11月21日に東京高裁で有罪判決、最高裁まで争った末に1969年に澁澤側の有罪が確定し、7万円の罰金刑を受けた。このとき澁澤はマスコミ取材に対し「たった7万円、人を馬鹿にしてますよ。3年くらいは(懲役刑を)食うと思っていたんだ」「7万円くらいだったら、何回だってまた出しますよ」と語った。
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サド裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 21:10 UTC 版)
詳細は「悪徳の栄え事件」を参照 1959年に澁澤の訳でマルキ・ド・サドの『悪徳の栄え・続』を刊行。1960年4月、警視庁生活安全部保安課によってわいせつ文書として押収され、1961年8月、石井と渋沢は起訴された。サド裁判は1969年10月まで9年間にわたって法廷で争われた。
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