サイケデリック・ソウル
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「サイケデリック・ミュージック」の記事における「サイケデリック・ソウル」の解説
詳細は「en:Psychedelic soul」を参照 ジミ・ヘンドリックスがロックシーンにおいて成功したことを受けて、サイケデリック・ミュージックは、アフリカ系アメリカ人、特にモータウンに所属するミュージシャンたちに衝撃を与えた。公民権運動もあって、この時の音楽は"アシッド・ロック"にしては暗く、政治的な内容が強かった。ジェームズ・ブラウンがつくりあげた ファンクのサウンドに乗ったそのジャンルは、スライ&ザ・ファミリー・ストーン の「Dance to the Music」 (1968年)、「エヴリデイ・ピープル」 (1968年)、 「I Want to Take You Higher」 (1969年) や、テンプテーションズの「Cloud Nine」 (1968年)、「en:Runaway Child, Running Wild」 (1969年)、「Psychedelic Shack」 (1969年)といった楽曲のリリースによって開拓されていった。すぐに シュープリームスの「Love Child」 (1968年)や「Stoned Love」 (1970年)、The Chambers Brothersの「Time has come today」 (1966年発表。ただしチャートインは1968年)、フィフス・ディメンションによるローラ・ニーロの「ストーンド・ソウル・ピクニック」 (1968年)のカバー 、エドウィン・スターの「黒い戦争」(War) (1970年) 、 アンディスピューテッド・トゥルース(英語版)の「en:Smiling Faces Sometimes」 (1971年)といった同ジャンルの作品が次々に出てきた 。ジョージ・クリントンがファンカデリックと パーラメントを率いたり、様々なスピンオフをうみだしたことは、サイケデリック・ソウルというジャンルを息の長いものにし、1970年代の時点でファンクが宗教になりかけたほどだった。彼は40枚以上のシングルをプロデュースし、内3枚はアメリカの音楽チャートのトップ10入りし、3枚のアルバムがプラチナアルバムに認定された。
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