ゴーモンの秘書に
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1894年、21歳のアリスは速記の先生の紹介で、パリのサン=ロック通り(フランス語版)57番地にあった写真会社コントワール・ジェネラル・ド・フォトグラフィー(Le Comptoir Général de Photographie)の社長代理のレオン・ゴーモンに秘書として雇われ、150フランの給料を得た。アリスは週に6日、朝の8時から夜の8時まで、上司や社長たちからの呼び出しのベルに応えるという仕事を務めたが、やがて部屋を行ったり来たりするのが無駄だとして、社長室にデスクを与えられた。そこでアリスは会社に客として訪れた物理学者のエルテール・マスカールやルイ・ポール・カイユテ、細菌学者のエミール・ルー(フランス語版)、エッフェル塔の設計者のギュスターヴ・エッフェル、飛行家のアルベルト・サントス=デュモンなどの著名人と知り合いになった。聡明でよく働いたアリスは、ゴーモンから全幅の信頼を得、やがてさまざまな部門の管理責任を任されるようになった。 この時期にアリスが出会った著名人の中には、映画のパイオニアとなる人物もいた。1895年に会社を訪問したジョルジュ・ドゥメニー(フランス語版)は、自身が開発した動く映像装置フォノスコープ(フランス語版)のデモンストレーションを行い、ゴーモンにこの装置の利用を相談したが、アリスもこの会談に立ち会っていた。ゴーモンはこれに興味を示したが、そのすぐ後にはリュミエール兄弟が会社を訪問し、自身の発明したシネマトグラフの上映会にゴーモンを招待した。その上映会は同年3月22日にパリの国立工業奨励協会で行われ、アリスはゴーモンに同伴してこれに出席した。アリスは自伝で、ここで上映されたリュミエールの作品『工場の出口』(1895年)を見て、「私たちはこうして、そうとも知らずに映画の誕生に立ち合っていたのだ」と述べている。 1895年6月、ゴーモンは社長のフェリックス・リシャールからコントワール・ジェネラル・ド・フォトグラフィーの事業を買い取り、8月10日に資本金20万フランのレオン・ゴーモン商会(後にゴーモン社として知られ、フランスの大手映画会社へと発展する)を設立した。ゴーモンはドゥメニと手を組み、1895年末にフォノスコープをビオスコープと名を改めて発売し、1896年にはそれを改良した60ミリフィルム用の映画用カメラのクロノフォトグラフを販売した。ゴーモンが本格的に映画事業を始めたことで、社長秘書としてのアリスの仕事も増え、朝8時に出社して夜10時から11時頃まで事務をとり、帰宅するのは夜12時というスケジュールを送った。当時のアリスの自宅は会社のあるベルヴィル地区から遠いマラケ河岸(フランス語版)にあったが、会社と自宅の往復で多大な時間を無駄にしていることに気付いたゴーモンは、アリスのために自社の工場の近くにある小さなアパートを借りてくれた。
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