クムラン教団・エッセネ派説
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「死海文書」の記事における「クムラン教団・エッセネ派説」の解説
死海文書の著者が誰であるかについては諸説あるが、現在に至るまでもっともよく知られ、広く支持されてきた学説は、死海文書の著者をクムラン教団の人々と考え、クムラン教団を古代ユダヤ教のグループであるエッセネ派の共同体とみなす説である。文書が発見された最初期においてエレアザル・スケーニクはすでにエッセネ派と死海文書を結びつけて考えていたし、ロラン・ド・ヴォーとヨゼフ・ミリクはクムラン遺跡の発掘によって「クムラン教団=エッセネ派=死海文書の書き手」という説に至った。この説によれば、クムランに拠っていたエッセネ派の共同体によって死海文書が記され、ユダヤ戦争時の紀元66〜68年頃に戦火を避けるためにクムラン周辺の洞窟に隠されたとされる。クムラン遺跡では(1996年に見つかった二つの小さな陶片を例外として)一切の文書類が発見されていない。にもかかわらず「死海文書著者=クムランのエッセネ派」という説が支持されてきたのは以下のような理由による。 まず第一に死海文書の共同体規則に書かれた入門者の受け入れの儀式が、フラヴィウス・ヨセフスが著作(『ユダヤ戦記』2巻)の中で言及するエッセネ派の入門式との共通点が多かったことがある。さらに共同体規則にメンバーが財産を共有すると書かれていることもヨセフスの描くエッセネ派の特徴と合致している。 第二に、ヒルベト・クムラン遺跡の部屋から二つのインクつぼと低い机が発掘され、この場所で写本の作成が行われていた可能性が示されたことがある。ド・ヴォーはその部屋を「写字室」と呼んだ。さらに発掘によってユダヤ人の使う儀式用の大きな浴槽(ミクヴェー)が発見されたこともクムラン遺跡の住人がユダヤ人であったことの証左と考えられた。 第三に1世紀のローマの著述家大プリニウスも著作(『自然誌』5.73)において、死海の北西岸にエッセネ派の共同体があったと述べている。このように多くの傍証を挙げることができる「死海文書の著者=クムラン教団=エッセネ派」説だが、反論も多い。
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