クディリ王国の建国と挫折とは? わかりやすく解説

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クディリ王国(イサナ朝)の建国と挫折

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 18:52 UTC 版)

クディリ王国」の記事における「クディリ王国イサナ朝)の建国挫折」の解説

中部ジャワから東部ジャワ権力重心移ったことについては、火山噴火などの自然災害疫病などという説が唱えられてきた。しかし、イサナ家が東部ジャワ在地王朝古マタラム王国血統を引く王朝かにかかわらずジャワ海直接つながるプランタス川流域豊かな生産力南シナ海インド洋を結ぶ海上交易を行ううえで中部ジャワより地理的に有利であることを重視して東部ジャワ王朝本拠選んだということである。なお、ムプ=シンドクは、古マタラム王国のトゥロドン王(位919年 - 924年)のときに、ラクリャン・マハマントリ・イ・ハルの職にあり、最後ワワ王(位924年 - 929年)のときにラクリャン・マハマントリ・イ・ヒノといういずれも本来は、次の王になるべき王子たち勤める職に任じられていた。また、ワワ王の女婿であったため、王位につくことができたと考えられる。ムプ=シンドク治世は、平和であって、彼自身ヒンドゥー教奉じていたが、他宗教にも寛容であり、タントラ仏教書物を作らせたり、聖地として寺院建築をさせて、土地税を免除したりする政策を採った。ムプ=シンドクの後は、娘のシュリー・イサナトゥンガヴィジャヤが後を継ぎ、彼女の夫ロカパラ王との子、マクサワンサワルダナがさらにその後継いだ。マクサワンサワルダナには、娘のマヘンドラダッタと息子か女婿のダルマヴァンシャがいた。マヘンドラダッタは、バリウダヤナ嫁ぎ、ダルマヴァンシャ(位991年 - 1016年)が後を継いだ。ダルマヴァンシャは、即位間もない時期マレースマトラ方面出兵し、シュリーヴォジャヤの勢力圏一時的に支配することに成功したが、地方領主一人ウラウリ王の反乱によって殺害された。それは、彼の娘とその婿アイルランガの結婚式のときだった伝えられる

※この「クディリ王国(イサナ朝)の建国と挫折」の解説は、「クディリ王国」の解説の一部です。
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