キリシタンとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 06:18 UTC 版)
在昌は、永禄2年12月(ユリウス暦1560年1月)、ガスパル・ヴィレラらの上洛の折に逗留地を訪れ、伴天連達の天文学の知識に感銘を受けたことをきっかけとして、洗礼を受けキリシタンとなった。 さらに永禄7年(1564年)末には、妻子を連れて京を出奔して、豊後府内に下向した。豊後に向かう道中、伊予国堀江に立ち寄った際、在昌の妻は産気付き、永禄7年12月6日(ユリウス暦1565年1月3日)、男児を出産。この時の子が、のちの勘解由小路在信ではないかと考えられる。折しもこの時、ルイス・フロイスとルイス・デ・アルメイダの両者が行き違いに豊後から堺に向かう道中であり、在昌と出会い、部下を送って産後容態を悪くした在昌の妻を介抱した。在昌は信心の印として、11歳の息子メルショル(Melchior)を「神の奉仕に捧げる」すなわち修道士とする決意をした。メルショルは在昌の帰洛後も九州に留まり、天正8年(1580年)にイルマン(修道助祭)に叙階されたが、天正13年(1585年)にはイエズス会を退会し、その3~4ヵ月後に天草で何者かによって暗殺された。
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