ガリツィアへの軍事干渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 06:20 UTC 版)
「アンドラーシュ2世 (ハンガリー王)」の記事における「ガリツィアへの軍事干渉」の解説
「ガーリチ・ヴォルィーニ公国統一戦争」も参照 治世の初年、アンドラーシュはガリツィアの一部を占領する。 1205年にはガリツィアの幼い公子ダニーロを即位させるため、軍隊を出動させた。派兵の後、アンドラーシュはガリツィアとロドメリアに対して「ガリツィアとロドメリアの王」を名乗った。1206年初頭にダニーロはガリツィアから追放され、アンドラーシュはダニーロと対立する公子ウラジーミルから賄賂を受け取っていたために、ダニーロへの援助を拒んだ。 同1206年にガリツィアへの軍事干渉を再開したアンドラーシュは、ウラジーミルと対立する公子ロマンを支援した。1208年にアンドラーシュはロマンとガリツィアの貴族の間に起きた争いを利用してガリツィアを占領し、自身の名のもとにガリツィアを統治するように摂政に命じるが、翌1209年にウラジーミルによってガリツィアを奪回される。 1211年にアンドラーシュはガリツィアを再占領するためにダニーロを援助し、1212年にダニーロと敵対する公子ムスチスラフを攻撃する。間も無くダニーロはガリツィアから放逐され、再びハンガリー宮廷に援助を求めた。しかし、1213年にアンドラーシュがハンガリーを留守にしている間、バーンク・バーンをはじめとするハンガリーの貴族が王妃ゲルトルードを暗殺する事件が起きる。ゲルトルード殺害の報告が届くとアンドラーシュは本国に戻らざるを得なくなり、ガリツィアへの軍事干渉を中断した。 帰国後、アンドラーシュは反乱の首謀者のみを処刑して他の参加者は罰しなかったが、王子ベーラはアンドラーシュが下した処分に不満を表した。1214年、アンドラーシュはベーラをハンガリーの若王として戴冠させる。 同1214年の夏にアンドラーシュはポーランド大公レシェク1世と会見し、両国間でのガリツィアの分割についての条約を締結する。ハンガリー・ポーランド連合軍はガリツィアの一部を占領し、占領地はアンドラーシュの末子カールマーンに与えられた。しかし、アンドラーシュはレシェクが公子ムスチスラフと同盟していたためポーランドに領地を割譲しようとせず、レシェクとムスチスラフはハンガリー軍をガリツィアから追放した。結局、ハンガリーはポーランドと同盟を結び直し、アンドラーシュの王子をガリツィアの公とすることが認められた。
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