カナダにて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 09:45 UTC 版)
1914年、ブリティッシュコロンビア州カムループスにて、移民の両親のもと、日系二世カナダ人として生を受ける。 父タダシ・トウ・イノウエ(Tadashi "Tow" Inouye)こと井上譡(いのうえ とう, 1882年 - 1926年)は、京王電気軌道社長で貴族院議員も務めた井上篤太郎の次男(墓石には三男とある)である。16歳で移民した譡は1916年より第一次世界大戦にカナダ軍人として従軍し、その際の戦功により復員後にカナダ市民権と土地を得る。妻は新潟出身で、長男であるカナオのほか娘3人がいた。当時の記録によれば、譡はカナダ軍人としてミリタリー・メダル(英語版)を受章している。「カナオ」(加奈雄)という名は父の出身地である「神奈川」、そしてイノウエ家が暮らしていた「カナダ」(加奈陀)に因んだ命名であった。 カナダではバンクーバー実業学校(英語版)を卒業している。1度目の裁判ではカナダでの青少年期は幸せだったと述べているが、一方で収容所勤務時や2度目の裁判においてはこの時期に差別や虐待を受けたとも述べている。 1926年、日本に帰国していた譡が病に倒れ、9月10日に駿河台病院にて死去する。1936年、家族の行く末を心配した祖父篤太郎がカナオを日本に呼び寄せた。しばらくは早稲田国際学院に出席していたが、片言の日本語しか話せなかったためにやがて退学し、愛甲農蚕学校に入学した。当時アジアとアメリカの貿易が急成長を続けていたため、篤太郎らは英語と日本語をどちらも話すカナオがビジネス上重要な役割を果たすことを期待していた。しかし、カナダと日本の文化の違いが障害となっていた上、二世として色眼鏡で見られたり、世間話も難しかったため、カナオ自身はカナダに戻ることを望んでいたという。
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