オスマンの終焉から第一次世界大戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 06:53 UTC 版)
「テッサロニキ」の記事における「オスマンの終焉から第一次世界大戦まで」の解説
20世紀初期、テッサロニキは反オスマンの様々な急進的なグループの活動の拠点で、1903年にマケドニア委員会がマケドニア人の内部マケドニア革命組織(IMRO)は1893年に設立された。1903年にアナキズムのグループで知られたテッサロニキの船乗り(英語版)はIMROの支援によりテッサロニキ市内の建物の爆破を計画しその中にはオスマン銀行(英語版)も含まれていた。オスマンのセラーニク(テッサロニキ)におけるギリシャの執政政府(現在のマケドニア闘争博物館)はギリシャゲリラの活動の中心に使われた。1908年に青年トルコ人運動がテッサロニキでは隆盛し、青年トルコ人革命へと発展している。 第一次バルカン戦争時、ギリシャはオスマン帝国からの独立を宣言し国境を拡大させた。当時の首相エレフテリオス・ヴェニゼロスは軍にテッサロニキかモナスティル(現在のマケドニア共和国のビトラ)どちらに進軍するべきか尋ねられた時、「すべてをテッサロニキへ!」と応じておりテッサロニキへ進軍している。ギリシャとブルガリア王国は両国ともテッサロニキを要求しており、両者は市内に入りオスマンの駐屯隊と交渉を行っていた。1912年11月8日(10月26日旧暦)の守護聖人の聖デメトリウスの祭日にギリシャ軍はオスマン軍の降伏を認めた。ブルガリアの軍隊がその後、降伏したテッサロニキに1日後に到着し、統治者であったタシンパシャはブルガリアの当局者に「私には一つのテッサロニキだけであり、もう降伏している。」と述べている。1913年3月18日、第二次バルカン戦争後、テッサロニキやマケドニアのギリシャ部分の残りの部分が正式に1913年のブカレスト条約(英語版)によって統合された。ギリシャの国王ゲオルギオス1世がテッサロニキ訪問中に暗殺されるという事件が起こった。
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