イギリスの封鎖作戦 (1667年)
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「クロード・ド・ルー・ド・サン=ローラン」の記事における「イギリスの封鎖作戦 (1667年)」の解説
この年、ジョン・ベリー率いるイギリス艦隊がカリブ海に至り、セントクリストファー島を封鎖した。4月4日、イギリス艦隊はネイビス島に到着した。そしてセントクリストファー島の要塞の大砲の射程範囲の外から島を取り囲み、フランス船の通行を阻んだのである。サン=ローランは、セントクリストファー島が封鎖と飢餓のために危険な状態にあることをラ・バールに伝えた。ラ・バールやマルティニーク総督Robert de Clodoré、オランダ海軍のAbraham Crijnssenらは、何度もセントクリストファー島の包囲突破を試みた。フランス・オランダ連合艦隊はネイビス島に向かい、5月20日にイギリス艦隊と接敵した。しかしこのネイビスの戦いで、ラ・バールは無能な指揮を晒して撤退し、Crijnssenは不満をいだいたままヴァージニアへ去った。 さらに6月初頭、ジョン・ハーマン率いるイギリスの大艦隊がカリブ海に到来した。6月末から7月初頭のマルティニークの戦い(ハーマンのマルティニークの焚き火)で、ラ・バールらのフランス艦隊は壊滅した。またアンティグア総督ヘンリー・ウィロビー率いる14隻の専管と16隻のバーク船からなるイギリス艦隊が、兵を満載して6月17日にセントクリストファー島に到達した。翌日、イギリス軍がPointe-des-Palmistesに上陸した。しかしサン=ローランらフランス守備隊は激しい抵抗を続け、ウィロビーの軍をネイビス島へ撤退させるに至った。サン=ローランの部隊は、イギリス軍の軍旗を8本も奪取した。また彼は、甥をフランス本国に送り状況をルイ14世に報告させた。
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