イギリスの「世紀のレース」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/22 07:25 UTC 版)
「バスティノ」の記事における「イギリスの「世紀のレース」」の解説
バスティノは、古馬に開放されているキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス(G1)で強敵に直面していた。 出走馬には、ネルソン・バンカー・ハントの世界の競馬史上最も偉大な牝馬の1頭ダリア Dahlia (GB) 、ミラノ大賞(G1)でダリアを破り、前走のエクリプスステークス(G1)も勝って3連勝中のシュターアピール(英語版) 、エプソムダービー、アイルランドダービー(G1)を制した3歳のグランディらがいた。 バスティノの 1 1/2 マイルにおける持久力に自信を持っていたディック・ハーン調教師は、グランディを消耗させるべく2頭のラビットを出走させた。猛烈なハイペースでレースは進み、残り半マイルでバスティノとジョー・マーサー騎手が先頭に立った。すぐ後ろでバスティノをマークしていたグランディのパット・エデリー騎手も後を追い、シュターアピールを交わして2番手に上がって行った。しかし直線入り口に差し掛かる頃には3馬身以上の差が付けられており、逆転はほとんど不可能なように見えた。懸命に鞭を入れるエデリー(9回に及んだ)に答えてグランディは少しずつ差を詰め始め、2頭は他の馬を引き離した。残り1ハロンで遂にグランディがバスティノを捕らえ、勝負は決したかに見えた。が、バスティノはすぐに先頭を奪い返した。息詰まる競り合いは半ハロン続いたが、決勝線から100ヤードでグランディが前に出て、最後の数完歩で半馬身の差を付けバスティノの驚異的な走りを退けた 。更に5馬身遅れて3連覇の懸かっていたダリアは3着だった。2分26秒98の勝ちタイムはそれまでのレコードを約2秒半破り、6着までがダリアの記録した2分30秒43のレコードを更新していた。これはイギリスで記録された 1 1/2 マイルにおける最速の電気計測タイムだった 。このような稀なレースは両方の馬に代償を要求した。グランディは成功せずに一度だけ走り 、バスティノは二度と出走することはなかった。マーサーは後のインタビューでこう振り返っている。 「もちろん、そのとき我々は最終的には負けてしまったけれども、それは非常に刺激的だった。私の馬はこのレースで故障してしまったので二度と出走することは無かった。それが無ければ、恐らく我々は勝っていただろうと思う。グランディが我々に良く追いついて来たところまでは、彼はレースで勝っていたと思うが、その後彼は手前を変えて勢いをやや失い、グランディは彼を挫くために優位に立った。しかしそれは視聴者や観客に愛された偉大なレースで、2頭は偉大な馬だった。」 オブザーバー紙による「最も偉大な競馬オールタイム10選」のリストでは、1975年7月26日アスコット競馬場のキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスにおけるバスティノとグランディの戦いが第2位にランクされた。1位は1936年のアスコットゴールドカップにおけるオークス馬クワッシュド(英語版) Quashed (GB) とアメリカ合衆国三冠馬オマハ Omaha (USA) の戦いだった 。 1週間後、バスティノにレース後初めて強めの調教を行うと、前足の腱に熱を持っているのが発見された。これは関係者以外には伏せられ、調教は乗り運動 だけに制限された。しかし強めの調教を再開すると、すぐに熱が再発した。バスティノは凱旋門賞(G1)の出走確定前投票で4対1(5倍)の本命となっていたが、8月31日、腱の故障により競走馬を引退し、ロイヤルスタッドで種牡馬入りすることが正式に発表された 。
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