アブー・サイード
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アブー・サイード・ハン(アラビア語: ابو سعيد خان Abū Sa`īd Khān、1304年6月2日 - 1335年11月30日)は、イルハン朝の第9代君主(在位:1316年 - 1335年)。父は第8代君主のオルジェイトゥ。名はアル・スルターヌル・アーディルともいわれ、「正しいスルタン」を意味する。アブー・サイード・バハードゥル・ハン(ابو سعيد بهادر خان Abū Sa`īd Bahādur Khān)とも呼ばれる。漢語史料では不賽因と表記される。
- ^ 妹のサティ・ベクは1335年には生存しており、この時点でアルグンの子孫が完全に絶えたわけではない。後に傀儡のハンとして擁立されたムハンマド、ジャハーン・テムルらも、サイードと同じくフレグを祖とする。
- ^ アルパの即位後、バグダード・ハトゥンはサイード毒殺とウズベク・ハンへの内通の嫌疑をかけられ処刑された。
- ^ オイラト部族長クドカ・ベキ家の親族であったテンギズ・キュレゲンの孫チチェクの娘。
- ^ チョバンの息子ディマシュク・ホージャと、ケレイト王家の後裔であったイリンチンの娘タルサン・ハトゥンとの娘。イリンチンは、オン・ハンの孫サリジャ(フレグの筆頭正妃ドクズ・ハトゥンの兄弟)の息子。オルジェイトゥの第8正妃(ハトゥン)であったクトルグ=シャー・ハトゥンは彼女の姉妹。
- ^ ガザン・ハンの妃イディ・クルトカ・ハトゥンのオルドを彼女との繋がりから受け継いだという。
- ^ 『高貴系譜』によると、アブー・サイードは幼少のみぎり彼女を娶ったといい、オルジェイトゥの第3正妃であったウルトゥズミシュ・ハトゥン(またはイルトゥズミシュ・ハトゥン)のオルドを委ねられたという。
- ^ 『高貴系譜』(Mu`izz al-Ansāb)ではアブー・サイードの子孫として、女子を表す四角の枠がひとつだけアブー・サイードの枠の下へ続いている。そこでの説明書きでは「その母親はディルシャード・ハトゥンであった」とのみ書かれて名前は付されていない。
- 1 アブー・サイードとは
- 2 アブー・サイードの概要
- 3 宗室
アブー・サイード
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1316年、オルジェイトゥが死ぬと息子アブー・サイードが即位するが、新ハンはわずか12歳であったためスルドス部族のチョパンが宰相として実権を握った。1317年、ラシードゥッディーンと政敵タージェッディーン・アリー・シャーの政争でラシードが失脚し、翌年処刑された。 成人したアブー・サイードは、チョパンの娘バグダード・ハトゥンを巡ってチョパンと対立するようになり、1327年にチョパンを殺害し、実権を自ら掌握するが、この内紛でイルハン朝の軍事力は大いに衰えた。ジョチ・ウルスのウズベク・ハンが来襲する陣中で、ディルシャド・ハトゥン(フランス語版、英語版)を寵愛するアブー・サイードは、1335年に子のなかったバグダード・ハトゥンに暗殺された。フレグ王統の断絶をもってイルハン朝の滅亡とすることが多い。
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