その後のトーナメント
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/23 07:58 UTC 版)
トーナメントが廃れるのは直線的な過程ではなかった。14世紀の社会ではアーサー王時代を理想とする騎士道物語がトゥルネイを扱っているため、トゥルネイは戦士としての重要な技術だと考えられていた。トーナメントはイングランドではエドワード1世(在位:1272年-1307年)やエドワード3世(在位:1327年-1377年)のような武勇や十字軍を好む王の時代に復活した。しかし、それにも係わらず、後者の時代にトーナメントは終焉を告げた。エドワード3世は、技術披露的な競技会や主にジョストのみの催しを勧め、主催した。イングランドで開催された最後のトーナメントは1342年にダンスタブルで行われたもので、ジョストによりトゥルネイの開始が遅れ、突撃を行う時には日が沈みかけていた。フランスではトーナメントはもう少し長生きし、1379年にブルッヘで最後に開催されたのが知られている。同年にフランドル伯がヘントでトーナメントを開催することを告知すると、同市の市民の暴動が発生した。彼らの不満はトーナメント開催により発生する費用負担のためであった。
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