その他の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/05 23:13 UTC 版)
スモレンスク県の他のいくつかの都市も小規模な戦闘の舞台となった。ロシア軍は優勢に立っていた1632年にいくつかの重要な地点を占領したものの、主力軍と大砲のスモレンスクへの到着が遅れてしまい、結果として彼らは包囲とその後の戦闘を勝ち抜くのに必要な余力を失ってしまったと考えられている。1633年7月、ロシア軍はポラツク、ヴィエリシュ、ウシヴャト、オジェジシュチェの町を占拠した。ポラツクは特に都市と要塞の一部を奪ったロシア軍にとって激しい戦闘の舞台になった。しかしヴィチェプスクとムシチスラウへの共和国軍の攻撃には首尾よく撃退することが出来た。ポーランド軍はプティヴリを包囲したが、同盟者であるコサックの離脱によって失敗に終わった。 1633年秋、共和国軍は前年にロシア軍が占領してから物資補給ポイントとして重視していたドロゴブージを奪回した。この奪回事件は、この都市からシェインの軍隊に補給を行うというロシア側の計画を頓挫させたが、そもそも、ロシアは1634年1月までに補給計画遂行のために必要な強兵5000人を集めることが出来なかった。また同年の秋には、王冠領大ヘトマンのスタニスワフ・コニェツポルスキが共和国の南部国境でオスマン帝国の侵略軍を破り(ポーランド・オスマン戦争)、ロシアの都市セフスクを包囲していた。コニェツポルスキはこの町の要塞を落とせなかったが、この地域のロシア側の部隊を縛りつけ、北方のスモレンスクにいるロシア軍と合流するのを妨げた。 スモレンスクを1634年春に解放すると、共和国軍はベールイ(ビャワ)に向かい、3月下旬までに同市の郊外に到着した。ベールイ占領の試みは失敗に終わったが、共和国軍はヴャジマを奪うことが出来た。
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