その他の国民によるカリフォルニア進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/23 14:58 UTC 版)
「カリフォルニア州の歴史」の記事における「その他の国民によるカリフォルニア進出」の解説
ロシア・アメリカ会社は北アメリカで最南の植民地として1812年にロス砦を設立し、それより北の不毛のアラスカにあるロシアの基地に農産物を供給することを目指した。この需要はコロンビア川沿いにあったバンクーバー砦の農産物についてのロシア・アメリカ会社とハドソン湾会社との取引で満たされたので、砦の目的は頓挫したが、1841年までロシアが砦を維持しており、その間、ロシア人やロシア帝国からきた他の国籍の人々が少数住んでいた。 この期間、アメリカとイギリスの交易業者がビーバーを求めてカリフォルニアに入り始めた。シスキュー・トレイル、古スペイン・トレイルおよび後にはカリフォルニア・トレイルを通ってこれら交易業者の集団が、しばしばメキシコ当局への告知やその承認も無いままにカリフォルニアに到着し、後のゴールドラッシュ時代のフォーティナイナーズや農夫、牧場主が入ってくる基礎となっていった。 1840年、アメリカの冒険家で作家、弁護士のリチャード・ヘンリー・デイナは1830年代にカリフォルニア沖を航海した経験から『マストの前の2年間』を書いた。 カリフォルニアを目指したフランスの科学遠征隊の指導者ユージーン・デュフロット・モフラは1840年に、「カリフォルニアは1隻の軍艦(Man-of-war)と200名の兵士を送る選択をした国ならどこでもその支配下に入ることは明らかだ」と書いた。1841年、バレホ将軍はアラバラド知事に宛てて、「疑いもなくフランスはカリフォルニアの主人になろうと企んでいる」と書いたが、フランス政府に続いた一連の問題のためにこの地域に対するフランスの興味を進展させられなかった。ドイツ系スイス人でフランス贔屓のジョン・サッターはメキシコとの協議がうまく行かない時に、カリフォルニアにフランス国旗を掲げ、フランスの保護の下に自らの入植地ニュー・ヘルベティアを造ると脅した。
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