小倉倹司(おぐらけんじ 1861-1946)
陸地測量部製図課所属、水師営の会見写真撮影者。
小倉倹司は、明治27年(1894)日清戦争に陸地測量部の従軍写真班として外谷鉦次郎大尉、村山維清らと従事、翌年帰国した。この時の撮影は、日本で最初の公式戦争記録である。併せて、従来の乾板に代わって、フイルムが使用されて、これが日本におけるフイルム使用の最初ではないかといわれている。その後の小倉倹司は、明治28年~明治32年までドイツ、オーストリアに写真術と製版技術研究のため留学した。
明治32年には、自宅内に3色研究所を作り、オーストリア陸地測量部のヒューブルから学んだコロジオンエマルジオン法による写真乾板を使って3色版の研究を行い、一般刊行物では日本で最初の3色版印刷物を発表した(明治35年「文藝倶楽部」に発表した「薔薇花」が知られる)。明治35年11月には、これを参謀本部で天覧に供した。
明治37 年には、水路部印刷所の嘱託にも就き、ここでも写真、石版、写真銅版を海図の製版に応用する道を開いたという。
そして日露戦争(明治37年、38年)時には、大本営写真班が結成され、小倉倹司も従軍撮影者として現地に赴いている。そのときの旅順要塞の攻防戦における水師営会見の写真などは、小倉ら陸地測量部の写真班の手によるものである。
小倉倹司と「薔薇花」
小倉倹司は、明治27年(1894)日清戦争に陸地測量部の従軍写真班として外谷鉦次郎大尉、村山維清らと従事、翌年帰国した。この時の撮影は、日本で最初の公式戦争記録である。併せて、従来の乾板に代わって、フイルムが使用されて、これが日本におけるフイルム使用の最初ではないかといわれている。その後の小倉倹司は、明治28年~明治32年までドイツ、オーストリアに写真術と製版技術研究のため留学した。
明治32年には、自宅内に3色研究所を作り、オーストリア陸地測量部のヒューブルから学んだコロジオンエマルジオン法による写真乾板を使って3色版の研究を行い、一般刊行物では日本で最初の3色版印刷物を発表した(明治35年「文藝倶楽部」に発表した「薔薇花」が知られる)。明治35年11月には、これを参謀本部で天覧に供した。
明治37 年には、水路部印刷所の嘱託にも就き、ここでも写真、石版、写真銅版を海図の製版に応用する道を開いたという。
そして日露戦争(明治37年、38年)時には、大本営写真班が結成され、小倉倹司も従軍撮影者として現地に赴いている。そのときの旅順要塞の攻防戦における水師営会見の写真などは、小倉ら陸地測量部の写真班の手によるものである。
- おぐらけんじのページへのリンク