『太田道灌状』に見られる動向
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「五十子陣」の記事における「『太田道灌状』に見られる動向」の解説
太田道灌が文明12年(1480年)11月28日に山内家家臣高瀬民部少輔に送った書状である『太田道灌状』によれば、道灌は文明6年(1474年)に江戸城を出て五十子へ参陣しようとしたところ、長尾景春が数回にわたって使者を送り、無益だから思い止まる様にと伝えてきた。道灌はこれを無視して出発し、上田上野介がいた小河(現比企郡小川町)で一泊した。翌朝、景春が飯塚(現花園町から寄居町)から駆け付け、上杉顕定と憲房の父子を討ち取りたいと思うので五十子参陣を中止するようにと謀反を打ち明けてきた。それでもなお道灌は景春の勧告を無視して五十子へ参陣し、この陰謀を飯塚次郎左衛門尉を通して上杉家へ知らせた。 道灌が五十子へ参陣する以前から、こうした駆け引きがすでに生じていた事が分かる。また、景春が乱を起こす数年前から謀反を計画していた事も分かる(家督に関する不満がこの時点で表面化している)。
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