聖パトリック大隊 死亡

聖パトリック大隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 14:37 UTC 版)

死亡

裁判

サン・パトリシオスはアメリカ陸軍に捕まり、裏切り者の処罰を受けた。彼らはアメリカ陸軍が直面したもっとも困難な戦闘のいくつかに関わっていて、72名はすぐに脱走の罪で告発された。

二つの別々の軍事法廷が開かれた。8月23日にタクバヤで、もう一つは8月26日にサンアンヘルで行われた。法廷では、兵士は弁護士に代理もされず、弁論の筆記もなかった。この正式な弁護士の意見の不足で、兵士の数名は酒気によって脱走に至ったことを主張した(より軽い判決に通じるときの軍事裁判におけるごく一般的な防衛策)。他の者は、何らかの形でメキシコ軍に強制的に参加させられたと説明した。しかしながらサン・パトリシオスの圧倒的多数はなんの主張もせず、彼らの主張は記録されていない。

判決

捕らえられたサン・パトリシオスの大部分を待っていた運命は、タクバヤ法廷の30名と、サンアンヘル法廷の20名の絞首刑であった。この論拠は、彼らはメキシコの宣戦布告の後にメキシコ軍の任務についたという点にあった。実際、米墨戦争中には9,000名以上の兵士が脱走したのだが[14]、サン・パトリシオスだけがこのように罰せられた。一方で、メキシコによる公式な宣戦布告以前に兵役を去った者(ライリーを含む)は、「裸の背中に50回の鞭打ち、脱走兵(deserter)を示すDの文字を焼き付け、戦争が続いている間は首の周りに鉄のくびきをつける[15]」という判決が下された。

2名だけは、実際にアメリカ軍に一度も加わったことがなかったという事実のために無実であることが分かった。

処刑

聖パトリック大隊の処刑

反逆罪による集団絞首刑は1847年9月10日にサンアンヘル、9月13日にチャプルテペクで行われた。ウィンフィールド・スコット将軍の命令により、30名のサン・パトリシオスは、チャプルテペクの戦いを戦った二つの軍隊が見えるところで、要塞の上でアメリカ国旗がメキシコ国旗に替わる正確な瞬間に処刑されることになっていた。

処刑はウィリアム・ハーニー大佐が実行した。処刑を監督している間、ハーニーは、前日に両足を切断していたフランシス・オコーナーも絞首刑にするよう命令した。軍医が大佐に、戦闘で両足を無くした兵士は欠席していることを伝えた時、ハーニーは「今すぐそいつを連れてこい! 私の命令は神にかけても30名を絞首刑にすることだ[16]」と返答した。

4時間半後の午前9時30分、最終的に旗はチャプルテペク城の旗竿の上に現れた。ハーニーの信号で、輪縄をかけられて結ばれた兵士を保持するカートは撤去された[17]

迅速な処刑を要求したハーニーのさらなる陸海軍条例の違反は、彼に対して起こされる告発をもたらさなかった。彼はまた次に、アメリカ陸軍がメキシコシティを占領したときの彼の役職、准将へと昇進した。


  1. ^ es:Batallón de San Patricio 02:21 6 sep 2007
  2. ^ Hogan, Irish Soldiers of Mexico. Fondo Editorial Universitario. Guadalajara: 1997, p. 223
  3. ^ メキシコ大統領 ビセンテ・フォックス・ケサーダ - 「アイルランドとメキシコの間の親近感は、我が国の最初の年、我が国が国家主権を守るために戦った時に遡る。当時、英雄的な行為を成したアイルランド兵士の勇敢な集団は、外国の侵略と戦うことを決意した。」
  4. ^ メキシコ大統領 エルネスト・セディージョ - 「聖パトリック大隊の隊員は、良心に従って処刑されました。彼らは最も高い理想を固く守るために迫害されました。我々は、これらの記憶を光栄に思います。メキシコの人々の名のもとで、今日私は、アイルランドの人々に敬意を表し、永遠の謝意を申し上げます。」The News (Mexico City), 1997年9月13日
  5. ^ Richard McCornack. The San Patricio Deserters in the Mexican War, 1847, The Irish Sword. Volume 3, 1958 p. 255
  6. ^ "I recollect at this place[the battle of Churubusco] that some of the gunners who had stood their ground, were deserters from General Taylor's army on the Rio Grande." Personal memoirs of U. S. Grant, Volume I, Chapter XI
  7. ^ David Lloyd, Ireland After History, p. 104, ISBN 0268012180
  8. ^ Hogan, Irish Soldiers of Mexico, pp. 152-155
  9. ^ K. Jack Bauer, The Mexican War, 1846-48, p.42.
  10. ^ Hogan, Irish Soldiers of Mexico, p. 41
  11. ^ a b Kelly King Howes, Mexican American war(U·X·L, 1 edition 2003) p. 181 ISBN 0787665371
  12. ^ The Mexican War and its Heroes 2:45 ISBN 1425561381
  13. ^ Milton Meltzer, Bound for the Rio Grande; the Mexican Struggle, 1845-1850. New York: Knopf, 1974. P. 197
  14. ^ Ex. Doc. 36, 30th Cong., 1 Sess, "Report of the Secretary of War... pp. 6-7: see also Hogan, p. 19
  15. ^ Heriberto Frías, La guerra contra los gringos (Mexico City: Ediciones Leega/Jucar, 1984), p. 173.
  16. ^ Wynn, The San Patricio Soldiers, p. 14.
  17. ^ Hogan, p. 187


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