翟義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/25 06:13 UTC 版)
エピソード
翟義の兄の翟宣は、字を太伯といい、経書に通じ、篤行厚い君子人であった。父の翟方進の生前に、関都尉と南郡太守を歴任していた。
翟義が決起する数か月前、翟宣が長安の屋敷にいたが、屋敷は何度も怪事があった。夜に鳴き声がしたので、調べてきいても、その所在が分からなかった。翟宣が、諸生を教授して堂にあふれさせていた時、犬が外から入ってきて、堂の中庭にいた、たくさんのアヒルにかみついてきた。翟宣たちは、おどろいて、アヒルを救おうとしたが、すでに皆、頭をかみ斬られており、犬は門から走り出て、どこにいったか分からなかった。
翟宣は大いにこのことを不審に思い、継母[17]に話した「文仲(翟義の字)は、東郡太守として、仲間を親しんでおり、今、不吉な怪事が何度も起きています。大きな禍が来るのではないかと恐れています。お母さまには故郷にお帰りいただき、私の家を捨て去って、害をお避けいただきますように」。しかし、継母は同意しなかったため、翟義の乱の時に、ともに処刑された。
脚注
参考文献
- ^ 以下、特に注釈がない場合、出典は、『漢書』翟方進伝
- ^ 『漢書』翟方進伝
- ^ a b c d e f g 『漢書』王莽伝上
- ^ 『漢書』元后伝
- ^ 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.164
- ^ この会話は、居摂元年(6年)に行われた可能性もありえる。
- ^ 哀帝の時代に、呪詛の罪で投獄され、自害した東平王劉雲の子。
- ^ a b c d e f g h i 『漢書』王莽伝上及び『漢書』翟方進伝
- ^ a b 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.166
- ^ 『漢書』王莽伝上では、この時には将軍に任じられ、西へ向かったとしているが、『漢書』翟方進伝では兄の王邑が西への討伐に向かった後、居摂3年(8年)正月に、揚武将軍に任じられ、西へ向かったとしている。
- ^ しかし『漢書』巻15下王子侯表下には、経過は不明だが、「兵敗死」とあるため、死亡は確認されたと思われる
- ^ 益州の蛮夷による反乱のこと。
- ^ 王莽が口癖のように言う言葉に「制礼作楽」がある。略して「制作」ともいうが、礼の制度化によって社会を等級づけて秩序あらしめることが「政礼」。「作楽」は「音楽を作(おこ)す」ことで、(中略)、淳風美俗の醸成に音楽を有効なものとして活用しようとすることである。『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.137
- ^ 『漢書』王莽伝上では、列侯と附城を含めて数百人としているが、『漢書』翟方進伝では列侯だけで395人としている。
- ^ 渡邉義浩は「儒教経典のなかで、唯一、爵位を五等、封地を四等に分ける五等爵制を説く『孟子』は、天子・公・侯・伯・子男という五等を説く。しかし、王莽は、自らが安漢公であるために「公」を省き、侯・伯・子・男・「附城」という五等を上奏している。安漢公の地位が唯一無二であることを経義よりも優先しているのである。典拠の『孟子』に従いきれていないところに、漢における自己の権力確立を第一とせざるを得なかった莽新建国以前の王莽の現実への妥協を見ることができよう」と論じている。『王莽―改革者の孤独』p.120-121
- ^ 『王莽―改革者の孤独』p.103
- ^ 翟義の母として処刑された練という名の人物だと思われる。
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