章帝 (漢)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/13 06:08 UTC 版)
子孫
後漢はその時々に権勢を振るった外戚が、幼児や少年を皇帝として擁立することが繰り返したため、直系の皇位がしばしば断絶し、和帝・安帝・少帝・質帝・桓帝・霊帝と、傍系から皇帝を立てることが繰り返されたが、いずれも皇帝への擁立は章帝の子孫から行われている。
章帝の男子には、馬皇太后の親族である宋貴人を母とし、生まれてすぐに皇太子に立てられた劉慶、和帝として即位した劉肇の他に、劉伉・劉全・劉寿・劉開・劉淑・劉万歳の8子がいた。章帝が最初に立てた皇太子劉慶は、側室の宋貴人が生んだ男子だった。その後、竇皇后が宋貴人と、劉肇を生んだ梁貴人を死に追いやった。建初7年(82年)、5歳であった劉慶は廃され清河王とされ、劉肇が皇太子となる。章和2年(88年)、章帝は亡くなり、劉肇が即位する(和帝)。しかし、このような経緯があっても、和帝は皇太子のころから兄劉慶との兄弟仲が深くいつも行動をともにしており、即位後も兄を身近に置いて私事を議すほどで、劉慶も皇帝となった弟を立てて忠実に仕えた。和帝の死の翌年、和帝の子の殤帝が没すると、劉慶の長男劉祜が和帝の未亡人で実権を握った鄧皇太后によって皇帝に擁立され、安帝となる。
また、その他の皇子もみな王に封ぜられて諸侯王となるが、済北王に封ぜられた劉寿の子から安帝の死後に擁立された少帝、勃海王に封ぜられた劉伉の曾孫から安帝の孫の沖帝が3歳で死去したあと擁立された質帝、河間王に封ぜられた劉開の子孫から毒殺された質帝に代わり皇帝に立てられた桓帝・霊帝の2帝が出た。
妻子
- 正室:竇皇后(章徳皇后) - 竇勛と沘陽公主(東海王劉彊の娘)のあいだの娘
- 側室:小梁貴人(贈恭懐皇后)
- 四男:劉肇(和帝) - 第4代皇帝
- 側室:大宋貴人(贈敬隠皇后)
- 側室:竇貴人 - 竇皇后の妹
- 側室:小宋貴人 - 大宋貴人の妹
- 側室:大梁貴人 - 小梁貴人の姉
- 側室:申貴人
- 生母不詳の子女
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