深沢晟雄 「生命村長」の死

深沢晟雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/21 00:45 UTC 版)

「生命村長」の死

その後、深沢は身体に変調を来すようになり、診察を受けたところ食道癌が発見された(本人には告知されず)。これだけ沢内村の地域医療の充実に奔走したにもかかわらず、深沢自身は大の医者嫌いであったと言い、結局そのことが仇となった。昭和39年(1964年)夏、秋田県横手市平鹿総合病院で手術を受ける。手術後は療養に努め、一時公務にも復帰したが、同年冬に福島県立医科大学附属病院に再入院。だが治療の甲斐なく、翌昭和40年(1965年)1月28日、肺炎のため死去。享年59。村長在職のままの死であった。

深沢の遺体が車に乗せられて沢内村に帰ったとき、吹雪のなか1000人以上の人が沿道に列をなして出迎えた。彼の遺体を乗せた車は殺到する村人のために何度も立ち往生を余儀なくされ、中には「お前の命を守ってくれた人だ」と孫子に言い聞かせながら手を合わせる村人もいた。これは彼がいかに村民に慕われていたかということを示す逸話と言える。葬儀は村葬として執り行われ、参列した多くの人が深沢の功績を讃え、そのあまりに早い死を悼んだ。

語り継がれる「深沢精神」

深澤晟雄の胸像と深澤晟雄資料館。手前は西和賀町町長の内記ら。2022年10月

深沢の死後、その業績を記念する顕彰会が組織され、彼の胸像を建立することが決まった。胸像の除幕式は昭和41年(1966年)秋、沢内病院の庭で行われた。昭和58年(1983年)には医療費無料化発祥の地を記念する石碑「いのちの灯」が胸像の隣に建立された。さらに平成20年(2008年)、深沢の遺品や保健活動の写真などを展示する「深澤晟雄資料館」が沢内病院の向かいに開館した。胸像と石碑は資料館の前に移設され、資料館と共に深沢の思想と「生命尊重行政」の歴史を今日に伝えている。胸像除幕の日は、偶然にも豪雪と戦い続けた氏の生涯を象徴するかのように、冷たい風が吹き荒ぶ猛吹雪の日であったと言われている。


  1. ^ 戸籍上の読み。地元ではふかざわと呼ばれていた。
  2. ^ 1931年3月学士試験に合格し、法学士となる(『東北帝国大学一覧 自昭和6年至昭和7年』東北帝国大学、1931年、p.444)。
  3. ^ a b 『そのとき歴史が動いた』[リンク切れ]
  4. ^ 『共済新報』『そのとき歴史が動いた』 『村長ありき』[リンク切れ]






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