朱ソウ 朱ソウの概要

朱ソウ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/27 01:47 UTC 版)

本来の表記は「朱樉」です。この記事に付けられたページ名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。

明の太祖洪武帝の次男。母は正妻の馬皇后皇太子朱標の同母兄弟。

経歴

1356年12月3日(至正16年11月11日)に洪武帝の次男として生まれる[1][2]1370年に秦王に封ぜられ、1378年西安へと赴任した[3][2]

1389年に宗室を管理する大宗正院が宗人府中国語版と改められ、朱樉はこの長である宗人令とされた[3][4]1391年に過失が多いとして首都の応天府へと呼び戻されたが、兄の朱標の取り成しにより罪を免れ、1392年に西安へ帰還した[3][4]

1395年には将軍の甯正らを率いて洮州へと遠征に出て、これを降した[3][5]。洪武帝は喜んだが、同年4月9日(旧暦3月20日)に死去した[3][5]。享年は40[5]。愍の諡号が贈られた[3]。長男の朱尚炳が後を継いだ[3]

朱樉の死因について『明史』には何も書かれないが、『太祖皇帝欽録中国語版』には朱樉が毒殺されたのではないかと述べる洪武帝の手簡が残る[6]

家族

  • 王氏 - の河南王ココ・テムル(王保保)の妹。朱樉の死後に殉葬され[3]、「愍烈」と諡される。
  • 鄧氏 - 鄧愈の娘[3]。正妃王氏に嫉妬して自決した。

[7]

  • 秦隠王 朱尚炳
  • 永興懿簡王 朱尚烈
  • 保安悼僖王 朱尚煜
  • 興平恭靖王 朱尚烐
  • 永寿懐簡王 朱尚灴
  • 安定王 朱尚炌

脚注

注釈

出典

参考文献

史書

  • 張廷玉他 (1739) (中国語). 明史 
    • (中国語) 列傳第四 諸王一. 巻116. (1739) 
    • (中国語) 表第一 諸王世表一. 巻100. (1739) 
  • 姚広孝他 (1418) (中国語). 太祖実録. 巻4 
  • 『賽因赤答忽公墓志銘』

近・現代


  1. ^ 実録四巻.
  2. ^ a b chan 2007, p. 56.
  3. ^ a b c d e f g h i 明史列伝四.
  4. ^ a b chan 2007, p. 57.
  5. ^ a b c chan 2007, p. 58.
  6. ^ chan 2007, p. 74.
  7. ^ 諸王世表一.


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