甯正とは? わかりやすく解説

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甯正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/15 13:56 UTC 版)

甯 正(ねい せい、生年不詳 - 1396年)は、初の軍人は正卿。本貫寿州

生涯

幼くして韋徳成中国語版の養子となり、韋姓を名乗った。元末に韋徳成に従って朱元璋に帰順し、長江を渡った。韋徳成が宣城で戦没すると、韋正はその遺衆を引き継いだ。功績を重ねて鳳翔衛指揮副使に任じられた。徐達の北伐に従って中原を平定し、元の大都に入ると、元の将士8000人あまりを招降した。

傅友徳真定から定州にかけてを平定すると、韋正は真定の守備にあたった。徐達らの西征に従い、陝西を攻略した。馮勝臨洮を陥落させると、韋正は臨洮に留められてその地を守備した。明軍が慶陽を包囲すると、韋正は邠州に駐屯し、敵軍の来援を遮断した。慶陽が陥落すると、韋正は臨洮に帰った。鄧愈の下で定西を破り、河州を攻略した。

洪武3年(1370年)、韋正は河州衛指揮使に任じられた。西方に展開する軍に食糧を輸送するのは負担がかかるので、軍に茶や布を支給して現地で交易して食糧に換えさせれば、輸送の負担を軽減できると提案し、洪武帝(朱元璋)の許可を得た。韋正が河州に赴任した当初は、その城邑にも人が少なかったが、人を呼び集めて河州を発展させた。洪武帝にその労をねぎらわれ、韋正は甯姓にもどされた。甯正は領寧夏衛事を兼ねた。漢代唐代の古い用水路を修築し、黄河の水を引いて畑を灌漑し、屯田数万頃を開いて、兵に食糧を自給自足させた。洪武9年(1376年)、北元の岐王桑哥朶児只班が西番諸衛から罕東に進攻してくると、甯正はこれを撃退した[1]

洪武13年(1380年)、沐英に従って北伐し、北元の平章の脱火赤や知院の愛足を捕らえ、全寧四部を奪取した。洪武15年(1382年)、四川都指揮使に転じ、松州茂州を平定した。雲南が平定されると、甯正は馮誠とともに雲南を守るよう命じられた。洪武21年(1388年)、麓川の思倫発が反乱を起こすと、甯正は摩沙勒寨でこれを撃破し、1500人を斬首した。洪武22年(1389年)、思倫発が定辺を包囲すると、沐英は兵を三隊に分けて対処した。甯正はそのうちの左軍を率いて戦い、思倫発を破った。越州の少数民族の首長の阿資が反乱を起こすと、甯正は沐英の下でこれを討ち降した。洪武25年(1392年)、沐英が死去すると、甯正は正式に左都督に任じられ、沐英に代わって雲南に駐屯した。洪武27年(1394年)、平羌将軍となり、四川・陝西の兵を率いて階州文州の反乱を鎮圧した。洪武28年(1395年)、秦王朱樉に従って洮州の少数民族の反乱を鎮圧し、南京に凱旋した。洪武29年(1396年)、甯正は死去した。

脚注

  1. ^ 明史』太祖紀二

参考文献

  • 明史』巻134 列伝第22



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