人魚
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日本の人魚
日本の文献上の初出は淡水産の生物(『日本書紀』)とされるが、以降はほぼ海棲の人魚の例である[394][396]。また古くは、日本の人魚はヒト状の顔を持つ魚と伝承されていたが[注 75]、遅くとも江戸時代後期にはヨーロッパ同様、ヒトの上半身と魚の下半身を持つ姿と伝えられるようになる。
八百比丘尼伝説で、人魚の肉が不老長寿をもたらすとされることが有名だが、江戸時代にもその絵をみると長寿をもたらすとする瓦版の例がみられる[注 76]。
人魚は一匹と数えるのが一応正しいとされるが[397]、一人と数える見解もある。架空の動物は、人に恋をするなど、人と"同類"と考えられる場合は一人と数える[398]。
古例
人魚を八百比丘尼が食したのが清寧天皇5年(西暦480年)で、人魚出現の最古例と藤澤衛彦はしているが、口承伝承なのか文献資料が確認できない[399][注 77]。
飛鳥時代
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以下、『書記』に記される近江国・摂津国の人魚について述べる。
つぎに推古天皇27年(619年)4月に近江国蒲生河に出現した、また7月摂津国の堀江(堀江川運河)で網にかかった、という各事案が『日本書紀』に記載されており[402]、これが文献資料に裏打ちされた最古例とされる[403]。
これらの古例は海棲でなく淡水(川)でみつかった人魚であることが指摘されるが[22][394]。その「姿は児のごとし」ということから、それはオオサンショウウオであろうと南方熊楠は仮説している[404][405]。
「人魚」だとの明言は日本書紀にはない[406][407]。推古女帝の摂政であった聖徳太子が「人魚」という語で言及したと、のちの『聖徳太子伝暦』には伝えられているが、実際にその言葉を用いられたか疑問視される[408]。日本書紀の編纂に用いられたどの史料にもおそらく「人魚」は使われておらず[407]、あるいはその頃まだ日本にはまだ「人魚」という語が成立していなかったのだろう[409]。
人魚は禍をもたらすものと聖徳は承知していたと『伝暦』に記されるが、[408]、江戸時代の浅井了意『聖徳太子伝暦備講』では、さらにその時代の漁師はもし網にかかっても逃がす風習であると解説する。[410][411]聖徳太子は、近江国の人魚が出現したことを凶兆と危ぶみ、当地に観音菩薩像を配置させたと、滋賀県願成寺の古文書では伝えるという[412][22][注 78]。滋賀県の観音正寺の縁起によれば、聖徳太子が琵琶湖で人魚に出会い、前世の悪行で人魚に姿を変えられたと聞き、やはり観音像を収めて寺を建てて供養したのが寺の由来だという(観音正寺および「§人魚のミイラ」に詳述)[414][415]。
摂津国より献上された人魚を聖徳太子が覧じている図が『聖徳太子絵伝』(1069年)にみえるが[416]、日本の人魚の図像としては現存最古とされる[417]。40もの写本が作られているが[416]、太子が48歳のとき贈られたが、これを嫌い「これは禍のもとだから早く捨てよ」と命じたとされる[418]。
奈良時代末期
以下、『嘉元記』に記される出雲国・能登国の人魚について述べる。
ついで古い2件は、天平勝宝8歳/756年 出雲・安来浦(ヤスイの浦)に漂着し、宝亀9年/(778年)能登・珠洲岬(ススノミサキ)に出現したというもので、法隆寺の古い記録とされる『嘉元記』(貞治2年/1363年頃成立)に記載される[419][420]。
中世
平忠盛に献上
以下、『古今著聞集』所収の伊勢国の人魚について述べる。
平忠盛(1153年没)が刑部少輔を退いたのち、伊勢国別保(べつほ/べっぽう。三重県旧・安芸郡河芸町、現・津市河芸地域)に居を構えたとき、浦人たち(浦辺に住む漁師や海女など[421])が、3匹の異様な大きな魚を網でとらえたという。鎌倉時代中期1254年に成立した『古今著聞集』に所収された説話にくわしい[427]
頭部は人のようだが歯が魚のように細かく"口が突き出ていて猿に似"、胴体は魚のようで、「人魚」ではなかろうか、と記される。一匹は浦人たちみんなで切り分けて食べてしまったが、特に症状や効能はあらわれず、美味だったという[注 79][427][426]。
みちのくの人魚
- (陸奥・出羽国。『吾妻鏡』『北条五代記』等所収。)
鎌倉時代より陸奥国や出羽国の浜に人魚が打ち上げられることが度々あると、同時代以降の文献にみられる。より後期の書物例では『北条五代記』(1641年刊)に記述があり、それぞれの例が戦乱か凶事の前兆だとしている[431]。
- 文治5年(1189年)夏、(陸奥の)外の浜に打ち上げられ、藤原秀衡の息子らの滅亡の予兆。
- 建仁3年4月(1203年)、津軽の浦。源実朝が悪禅師に害される。
- 建保元年(1213年)、出羽・秋田の浦。これも当時、鎌倉殿に注進。同年、和田合戦。
- 宝治元年3月11日(1247年)、津軽の浦[注 80]。同年三浦泰村の反乱(すなわち宝治合戦頼 2015, p. 33。東北で人魚が見つかった同じ3月11日に、由比ヶ浜では海が真っ赤になり、血に変わったと取り沙汰された[20][19]。
- 宝治二年秋(1248年)、陸奥、外の浜。執権北条時頼が確認を命令[429][419]
いずれの例もほぼ『吾妻鏡』(1266年まで)や[19][436]『北条九代記』(鎌倉年代記、1331年)にも記載されているが[20]、"人魚"ではなく"大魚"・"怪魚"の扱いである[19][20]。そしてこれら鎌倉時代の文献においてもやはり奥羽藤原の滅亡や和田義盛の乱などの前触れとされている。
宝治元年の例が主題になっており(『吾妻鏡』宝治元年五月二十九日の条)、四つ足を持ち、死人のよう[19]、"手足をもち鱗が重なり、頭は魚と変わらず"などと形容されている[20]。津軽でこの人魚(大魚)が上がった同日(あるいは先日[19])、由比ヶ浜の水が赤かった件[20]については、あるいはそのとき赤潮現象が起きていたのだろうと考察される[437]。
宝治元年の例は、『本朝年代記』[440](貞享元年/1684年刊)にもあるが日付が3月20日になっているので、西鶴はその記載を参観して作品[441]に取り入れたのだと考察される[443][注 81]。『本朝年代記』では「形は人の如し、腹に四足あり」とする[440]。
次の小節§人魚供養札で扱う例も「みちのく」に該当するといえる。さらには江戸時代にも例があるが、それは下(§津軽藩領)で取り上げる。
人魚供養札
中世において人魚が描かれた物的資料、「人魚供養札」(墨書板絵)が、秋田県井川町洲崎(すざき)遺跡(13-16世紀、鎌倉室町期)より出土している。井戸跡から見つかり、長さ80.6センチメートル。人の顔だが髪はなく、顔以外は鱗で覆われた魚体だが、両腕と両足があり、尾びれもついている[416]。実際の動物はおそらくアシカやアザラシなどの鰭脚類であろうと推察される[445][446][416]。
また「アラ、ツタナヤ、テウチ、テウチニトテ候、ソワカ」(可哀そうだが、殺してしまおう、ソワカ)、「アラ、ツタナヤ、ミウチ、人ニトテ候、ソワカ(可哀そう、同じ人間なのに縛られて、ソワカ)」の添え書きが見える[447][445][446]。現地の人が殺してしまったが、不吉な生き物をなので災いを避けるため、僧侶がソワカと祈祷するなどして供養をした、その様子が木簡に写されたものと推察されている[445][446][416]。
以降の年表
この後、鎌倉時代・室町時代にまたがる14世紀の人魚の出現例は他の史料(『嘉元記』等[420])に記録されている[419]。凶兆とされたため、発見した時は鎌倉殿(鎌倉幕府)に報告する義務があり、幕府はそのつど祈祷を行ったと『北条五代記』には書かれている[416]。
- 延慶3年4月11日(1310年)、若狭国小浜の津。国土に「目出度(めでた)」き、とされ真仙と名づけられた[452]
- 延文2年卯月3日(1357年)、伊勢國二見浦に出現。「長久なるべし」、延命寿と名づけられた[452]。一見すると見たことで「長久」がかなう瑞兆に読めるが、藤澤は"[上の例と合わせて]八尾比丘尼の長寿や二見浦の神聖に付帯せしめためでたさであって、人魚その物の瑞物である典拠となるものではない"と解説する[453]。
中世において最後の例が戦国時代の以下1例であり、安土桃山時代はなく、それ以降は江戸時代の例となる。
八百比丘尼伝説(若狭国)
八百比丘尼は、人魚や九穴の貝(あわび)等を食べたことで長寿になったと伝わる比丘尼である[458]。
文安6年/1449年5月に若狭国より京都に現れたとされ、年齢は800歳だがその姿は15歳から16歳の様に若々しかった。そのときに1000年の寿命を使わずに死んだと伝わるので、その設定上では太古に出生した人物ということになるが(上述の通り480年に人魚を食したとされる[399])、その出現について記した文献は中世室町時代の『康富記』や『臥雲日件録』である[458]。
福井県小浜市と福島県会津地方では「はっぴゃくびくに」、栃木県西方町真名子では「おびくに」、その他の地域では「やおびくに」と呼ばれる[459]。
江戸時代
江戸幕府は、1641年に《へいしむれる》(人魚の骨)をオランダ商館(東インド会社)より贈答されている[47](§へいしむれるの薬効を参照)。また八代将軍吉宗は享保2年(1717年)、人魚の図なども掲載されるヨンストン図譜を送られている[265]。よってかなり早い時期に西洋の人魚の知識が江戸人には伝わっていた。
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甲子夜話
松浦静山『甲子夜話』によれば延享年間(1744–1748年)初頭、静山の伯父の本学院(松浦邦)と伯母の光照院[461]が平戸(長崎県)から江戸に向かう途中、玄界灘の海女(蜑)が漁などしてるはずない沖合で、船の10間あまり先の海面に、人魚が現れたという。最初は下半身が見えず"も女容にして色青白く髪薄赤色にて長かりし"と見えたが、そのうち微笑して水に潜るとき魚尾が現れて人魚だと判明したという[462][42][463]。
長崎聞見録
時代はくだるが、廣川獬が著した『長崎聞見録/~見聞録』(寛政12/1800年刊)には「海女(人魚也)」と「海人」が画入りで連続して掲載されている[注 82]。薬用の《へいしむれる》にも(カナ表記が異なっているが)触れている[注 83][464][465]。
西鶴
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江戸時代の文学例では、井原西鶴の『武道伝来記』(貞享4年/1687年刊)が挙げられるが[40][注 84]、その作品で世間に伝わるという、
文中では四肢が「瑠璃(宝玉)を延ばしたよう」であるとされているが、挿絵は食い違っていて足はなく魚の尾びれになっており、とさかも欠ける[470]。また文中では登場人物が人魚めがけて半弓をかまえた(撃った)ことになっているが、絵では武器が鉄砲にすりかわっている[470][471]。
京伝
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山東京伝『箱入娘面屋人魚(はこいりむすめ めんやにんぎょう)』(1791年)にも人魚が登場するが、これは龍宮で乙姫の男妾として飼われている浦島太郎が魚のお鯉と浮気をして人面魚体の娘をもうけるというコメディーである[473]。捨てられた娘は江戸の釣船屋・平次に拾われ同棲し、暮らしのために身売りして花魁となるが失敗する。だが人魚を舐めれば長寿を授かるという知恵をもらい、「寿命の薬、人魚御なめ所」を開業した平次は大金を得、晴れて夫婦になろうと浮かれて妻を舐めすぎ七歳児に若返ってしまう。そこを浦島太郎が現れ、玉手箱を使ってちょうどいい年ごろに戻す。人魚も魚の部分がするりと抜けて普通の手足の女性に変身。平次は抜け殻も売り払いちゃっかりもうけを得る[474]。
絵本小夜時雨
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「浪華東堀に異魚を釣」[475]
江戸時代の古書『絵本小夜時雨』の二「浪華東堀に異魚を釣」に記述がある。寛政12年(1800年)、大阪西堀平野町の浜で釣り上げられたとされる体長約3尺(約90センチメートル)の怪魚。同書では人魚の一種とされるが、多くの伝承上の人魚と異なり人間状の上半身はなく、人に似た顔を持つ魚であり、ボラに似た鱗を持ち、人間の幼児のような声をあげたという[475]。水木しげるの著書には「髪魚(はつぎょ)」として載っている[476]。
漢学・蘭学の影響
日本における「人魚」は、本来は「人面魚」的な体形が主流だったのが、西洋の影響をうけて下半身が魚と言うイメージが江戸時代後期(18世紀後半以降)頃[480]に定着した、という説がある。これは大槻玄沢(『六物新志』、1786年)がヨハネス・ヨンストンの博物誌など洋書(蘭書)による人魚の説明や画像を紹介したことが大きいとされている[265][482][注 87]
18世紀までの本草学書貝原益軒『大和本草』(1709年)[483][318]や類書のたぐいである寺島良安『和漢三才図会』(1712年)における人魚の記述は、むろん漢籍にも頼っているが、いずれもペイシェ=ムリェール(ガリシア語: peixe muller、§へいしむれるの薬効参照)について述べている以上、洋学の情報源を参考にしていることになる[311]。中国でも[485]、たとえば明代後期にはフェルビースト(南懐仁)『坤輿外紀』(あるいは『坤輿全図』[486]、『坤輿図説』[321])が中国語で書かれ、ヨーロッパで人魚[注 88]の骨を薬用とすることが記述されていた[487]。
17–18世紀の大衆本(西鶴の戯作や京伝の黄表紙[注 89])をみると人魚の図像は、腕のある人魚のタイプ(右図:『竜宮羶鉢木』、『南総里見八犬伝』参照)と、首だけが人間の人面魚タイプ(上掲図:『箱入娘面屋人魚』参照)が混在しているが、前者は中国伝説上(山海経等)の陵魚(鯪魚)、後者は赤鱬に倣ったものであるという旨の説明が藤沢衛彦等によって打ち出されている[21][22]。ただしこれは言葉端折りともいうべきで、そのままでは正しい説明になっていない。というのは、藤沢が指摘するように、漢籍(山海経)の鯪魚は四つ足の生物で、これを二手無足の生物として挿絵したのは良安の『和漢三才図会』なのである[489]。そして『和漢三才図会』はこの人魚/鯪魚のほか、中国でも二手無足(半人半魚)とされる
津軽藩領
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時代は前後してしまうが、津軽藩領では17世紀と18世紀に目撃例がある[419]。後者の宝暦年間に捕れたという人魚は画に描かれているが、その昔ある弟子僧が溺れたという故事にかこつけており、画では僧侶の袈裟のようなものを掛けている(以下詳述)。
元禄元年(1688年)7月20日、野内浦(のうちのうら)で人魚が捕獲されたと記される[注 90](『津軽一統志』)[491]。
宝暦9年(1759年)[注 91]卯の三月、石崎村湊で「此の形」(すなわち上図)のような魚が捕獲されたと報告された(『津軽藩旧記伝類』引?『津軽日記』[451]/『津軽家編覧日記』[492])[注 92][493]。その百年前に"藤光寺の弟子坊主"が(津軽海峡をわたって)松前藩をめざしたとき、船から落ちた故事があるという。このことにかこつけて、話を大きくしたものだと、詮議の結果、判明した[493]。そして同様の記述/画は『三橋日記』の宝暦7年(1757年)の条にみつかり[注 93]、「輪袈裟」のようなものを掛けていることが指摘される。"薄黒い異形の魚"だったと形容されている[492][494]。『平山日記』の宝暦9年の条には「石崎村海之人面魚出諸人見物ニ行」"という記述もある[495]。
男の人魚
日本の人魚はヨーロッパの影響や、一説には仏教(竜王の娘の竜女伝説)の影響を受け[496]、女性とする傾向が次第に強くなった[497][498]。しかし、「男の人魚」が図解された例も、江戸期からみつかってはいる。
「御画 男人魚(おんが おとこにんぎょ)」と題し、弘前藩の若殿が書き写したという図が残されている。これもすなわちこれも上節のように津軽藩に関するものであるが、母君に見せて長寿を願ったものだと記される[494]。
「阿蘭陀渡り人魚の図」[注 94]という瓦版もあり、絵の人魚の容貌は老爺のようであるが[499]、"髪は紅毛、手は猿のようで、水かきがあり、形は蛇のごとし。食せば長寿は百歳を越し、見ただけでも無病延命の効があるという(現代語訳)"、としている[500][501][502]。
越中の人魚(海雷)
文化2年(1805年)「人魚図。一名海雷」と題する瓦版(右図上段)によれば、この年の五月、越中国放生淵四方浦に大型の人魚が現れた[注 95]。全長は三丈五尺(約10.6メートル)。頭が長髪の若い女だが、金色の角が二本生えている。頭以下は魚体で、脇腹の鱗の間に3つ目がついている。尾は鯉のそれに似る、と瓦版に書かれる[503][506]。絵図では人魚の片側しか書かれないが、胴体の両側面に3つずつ目がついているものと本文にある[506]。体に目がついているというのは、同じ越中国に出現したとされる予言獣「件(くだん)」に共通しており、関連性が指摘される[507]。
人々は怖れをなしたか、450丁もの銃で撃ちとめたとしたといわれる[503]。ところが、「此魚を一度見る人、寿命長久し悪事災難をのがれ福徳を得る」とこの瓦版では付記されているのが注目に値する[506]。
同じ人魚についての記載は、石塚豊芥子『街談文々集要』にもみつかり、場所を"放条津四形の浜(異聞に余潟浜)"としているが、三丈五尺の人魚が、日に二、三度出現し、漁を台無しにするうえ、漁村では火災が起きるので領主が鉄砲隊を向かわせた、と退治の理由を述べている。自分が模写した絵(右図下段左)は、街で売られていた彩色の摺物と大同小異で、そちらの人魚は"般若面のごとく、鰭に唐草のごとき紋あり、横腹左右ニ眼三づつあり"のものだった[508]。般若面の色刷りとは「人魚図」の瓦版が"それではないかと推測される"[509]。しかしながら加賀藩屋敷からはそのような事が起きたという話はいっこうに聞こえてこないので、虚偽の報道であろうとしている[508]。
『街談文々集要』の素描は、後述する「姫魚」[512]に似るという[510]。また、体が金色に彩色された模写絵も現存するが(湯本豪一記念日本妖怪博物館蔵)、越中の三丈五尺六寸という「悪魚図」である[509][513]。
肥前に竜宮の使い
時代はくだるが、文政2年(1819年)、肥前国に竜宮の御使いとして神社姫[516]、または金色の「姫魚」が現れたとされる[512][518]。絵には、背に宝珠が三つあり、三刃の剣型の尾鰭をしている。除難の予言獣の一種である。[519]
梅園魚譜
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毛利
こうした剥製を模した別例に松森胤保によるスケッチ(安政3年/1856年)が挙げられる[38]。
凶兆・瑞兆
上述のように、『聖徳太子伝暦』(伝・10世紀初頭)では人魚を不吉の象徴とみており[521]、『聖徳太子絵伝』でも災いとして人魚の献上物を捨てさせている[418]。人魚が恐れられたのは、一説によれば、中国の『山海経』に登場する、赤子のような声と脚を持つ人魚の描写が影響していると考察される[414]。
日本各地に伝わる人魚伝説に、人魚を凶兆とみなす例はほかにもあり、江戸期の『諸国里人談』によると、若狭国(現・福井県南部)で漁師が岩の上に寝ていた人魚を殺した後、その村では海鳴りや大地震が頻発し、人魚の祟りと恐れられたという[521]。
一方では吉兆との説もあり、江戸期になると、寿命長久や災難避けとしても崇められたこともある[522](§予言獣参照)。聖徳太子伝説においても、江戸期の注釈書によれば太子が「瑞祥」であると諭したことになっている[523]。
予言獣
江戸時代に災害を予言し、自分の図絵でもって除災せよと教示したと伝わるアマビエや件など予言獣は、その典型例に、人魚も含まれるとされる(湯本豪一による研究比較)[524][525] 。
予言する「人魚」の例としては、嘉永2年(1849年)の町人日記の記載(摺物によるものかと推察)がある[527][528]。
しかし、人魚以外の予言獣も、人魚や類種や一類型として考察される。肥後国で疫病の流行を予言したアマビエ(弘化3/1846年)も「くちばしを持った人魚のような」容姿だと形容されており[529]、神社姫・姫魚(文政2/1819年)も「人魚に近い幻獣」や[530]、人魚の一種と解説される[531]。
日本各地
アイヌソッキ
アイヌ民話で北海道の内浦湾に住むと伝えられる人魚によく似た伝説の生物。八百比丘尼の伝説と同様、この生物の肉を食べると長寿を保つことができるという[532]。文献によっては、アイヌソッキを人魚の別名とする[533]。
沖縄・奄美大島
沖縄県石垣島でも明和の大津波を予言したザン(ジュゴンのこと)の伝承がある。
また、鹿児島県奄美大島の『南島雑話』に人魚の絵が記されている。人魚と記載されてはいるが、外見はヒトのように2本の足を持つ。打ちあげられたまま放置され、数か月後に腐乱したとある[534]。
- ^ 特に『フュシオログス』や、その派生である『動物寓意譚』において
- ^ スペイン語: pez muller, pexe muller等。
- ^ 東洋にも、図像ではないが、文章ならば人魚が赤い髪だという表現はある。松浦静山の記した目撃談では"髪薄赤色"(§甲子夜話)であり、他にもとさかを持つという江戸時代の記述があり、リュウグウノツカイ起源説につながっている(§動物学的説明)。中国の文献にも馬尾のような長髪や、紅い鬣(たてがみ)という表現がみられる(海人魚参照)。
- ^ また、教会の木彫り装飾の人魚も、寓意譚等の装飾写本のセイレーン画に取材しており[15]、同じ寓意解釈が該当するとされる[13][14]。
- ^ 28都県(高橋晴美の調査)。
- ^ 本来北極圏などに生息するアゴヒゲアザラシ種のタマちゃんが都内に現れたのは周知の事実である[34]。
- ^ §18世紀モルッカ諸島の人魚(司馬江漢が模写した図)も参照。
- ^ チョーサー「尼院侍僧の話」、1390年頃を初出とする。
- ^ 古語wífは、ドイツ語の Weib のように'女性'の意であり、その名残は"fishwife"(女性の魚売り)などに求めれようが、現代で"wife"ワイフといえば'妻'であろう。
- ^ サガ訳もあり、古ノルド語sjókonur(「海の女」)と訳されている[68]
- ^ 古くは人頭の怪鳥の姿。
- ^ フィシオロゴスは厳密にはベスティアリでなくその原型。
- ^ アディショナル本の人魚は図のとおり長い魚を手にするが、クラークはこれはウナギだとしている。
- ^ モリス編版本の欄外要約参照。meremanとは、体躯と胸が乙女のようだが、へそのところでつながっているのは鰭が生えている正しく魚の部分である、の旨が原文に書かれている。
- ^ しかしこうした教会の観念は、現代では女性蔑視のそしりを受けている[94]。櫛や手鏡は、そもそも愛の神ウェヌスにまつわるものであるとの見解もある[95][10]。
- ^ なお、用例が必ずしも人魚と言えない例は、文献を省いた。
- ^ 『オックスフォード英語辞典』(OED辞典)に"meremanni, merimenni, mer(i)min, neut. merminna"と記載される。Schadeの辞典も"meremanni" を見出しにしている。[63]
- ^ この"叔母"は正確な訳ではないが、原語merwîp'母方のおば'[108]を端的にあらわす言葉がないということだろう。
- ^ 原作の場面はドナウ川だが[107][70]、少し前のくだりで一行はライン川の対岸の草地に野営を構えている。『シズレクのサガ』版では、ヘグニ(Högni、ハゲネ)が遭遇する同じ人魚ら(古ノルド語: sjókonar '海の女', "sea woman")は[68]、ライン川とドナウ川が交わる水域で現れる[109]。これがワグナー歌劇のラインの乙女らに転じるのであるMagee 1990, p. 65。
- ^ MHG: ane; modern ドイツ語: Ahn.
- ^ また、古いケルトの伝承では、人間と人魚の間に肉体的な外見上の違いはなかったとされている[134]
- ^ 一例としてクリスチャン4世の生誕の予言を挙げる。
- ^ 人類でないのだから、「ハヴマン」のような「人」の尊称をふくむ名称を避けるべきで、「海猿」(デンマーク語: hav-abe)のような造語で呼ぶべきだと説いている。更には「ハヴ=クオイアス・モルロウ Hav-Quoyas Morrov」なる名も提案している。「クオイアス・モルロウ」というのはアンゴラでみつかる類人猿の、現地名由来の名であり、アンゴラでは人魚が発見されたという例もあることから提案したと説明される。
- ^ ファイエは上述のポントピダン司教(第8章、海の怪物等々)を典拠に挙げているが、司教は当時において近年の目撃例を詳述している。1719年の例は全長3ファゾム (5.5 m)の大型で、濃灰色、足ヒレがアザラシに似ていたが、鯨類に属すと意見されている[168]。1723年の例(Andreas Bussæus 1679–1735 の著述に拠る)は、老人に似て、黒い巻き毛、黒い顎髭を持ち、荒い肌だが毛で覆われるとする。一目撃者が、胴体が魚のごとく先端に向かってすぼまっていると観察した[169]。
- ^ ベンジャミン・ソープ[167]、のちフレッチャー・バセット[173]は、マルギュグル、マルメニルをあたかも19世紀のノルウェー民間人が使っていた言葉のように解説するが、かれらの原書であるファイエは古語例として備考に述べたにすぎないので、添加内容(改ざん)といえる。
- ^ margýgur, hafgygur ('mer-troll'), haffrú ('sea-maid'); mey-fiskr ('maiden-fish').
- ^ スウェーデンでは他にも、sjö-kona ('海の女'。エストニアルフヌ島方言:sjö-kuna)[180]なども'海の女'を意味する人魚名。
- ^ 「人魚の伝言」型("英: The Mermaid's Message"; ノルウェー語: Havfruas spådom)。移動伝説の英名("Migratory Legend")よりML番号と略称される。
- ^ グリーム・インギャルズソン Grímr Ingjaldsson。『植民の書』に記述。
- ^ スカールム Skálm という牝馬が、積荷の下になったまま地べたに伏した場所。
- ^ "Hafsfmannen"
- ^ "Rosmer Havmand"
- ^ 蛇足だがイプセンの戯曲「ロスマースホルム」の主人公名称は人魚ロスマーに着想を得ている。
- ^ "Hafsfrun"/"Havsfruns tärna"
- ^ "margygr, hafgygr ('mer-troll')".
- ^ 中野他訳にもあるようトリトンはもとは一柱の「半身半魚の海神」だったが、後にトリトンという不特定多数の海の怪異のこととされた。
- ^ リスボンの使節団がティベリウス帝に報告した内容が一般のトリトンの図像と合致する、ということ。
- ^ リオ・デ・オロ(現今のヤケ・デル・ノルテ川)。
- ^ 森田は「ハドソンの人魚は、全身乳白色で美しい声を出すところから「海のカナリア」と呼ばれるベルーガ(シロイルカ)か」イッカクと推察する。
- ^ 同書に詳述されるが、ブラジルで(オランダ)西インド会社の商人が「海人(ホモ・マリヌス)」を捕えている(ラテン語原文: "prope Brasiliam.. captus suit homo marinus"[241])[248]。ただしウェブスターの古英訳では「ブラジル」が欠落する:"a Sea-Man taken by the Merchants of the West-India Company"。
- ^ ラテン名ペトルス・パヴィウス
- ^ 中丸 2015, p. 14が"ヨハネス・デ・ラエトの解剖結果"とまとめるには語弊があると思われる。
- ^ バルトリンは首がなく(頭がそのまま胴体につながる)、乳を分泌する乳房をもつ個体について説明しているが[249]、これはじつはブラジルではなく南アフリカの喜望峰ちかくの「クアマ川」で捕獲された個体についてベルナルディーノ・ジンナーロ(ベルナルディヌス・ギンナルス、1577–1644)より引用した内容である[49][248]。
- ^ 「海馬」は、水象牙を得られる生物。南方は『正字通』(1627)にある「落斯馬(ロスマ)」について、これはノルウェー語ロス・マー(セイウチ[251])のことであると説明しており、オランダの中国学者シュレッゲル(グスタフ・シュレーゲル)による「ウニコール(ユニコーン)」を"駁し"ているが[252]、一部の西洋の識者の間ではかつて、海棲のユニコーンのごとき一角の馬がいると伝わっていたことは、エラスムス・フランシスキの挿絵でも明らかである:Francisci 1668, p. 1406 向かい Plate XLVII。
- ^ この勇斯東(ヨンストン)よりの模写とする絵が、『六物新志』(「人魚図」牡・牝)に転載されている[259]。
- ^ アントロポモルポス Anthropomorphos と、原書(キルヒャー[260]やヨンストンのラテン語版では綴っている(上図、銅版画の見出し参照)[258]。これをヨンストンのオランダ語訳の本文では Anthropomorphus に綴りを変えているものの、銅版画は同一を使いまわしているので Anthropomorphos のままになっている[271]。
- ^ 細かい点だが、原典(キルヒャーやヨンストンのラテン語著作物)のなかでは「ピスキス・アントロポモルポス」(羅: piscis anthropomorphos; 希: ανθρωπόμορφος)と称してラテン語とギリシア語の合成語になっている(なお原文ではpisceと綴るがこれは奪格、すなわち「○○魚について De~」の句形の用法で、主格に直すと piscisである。)[260][258]
- ^ このほかインド人(原住民)が人魚と夜毎に性交を行い、その胸から下は人間の女性のようだったという証言(懺悔内容)が記録されている[268]。
- ^ スペイン語名は、当時の書籍によって綴りがだいぶ異なる。すなわち近世スペイン語(あるいはガリシア語)名は、ぺチェ・ムヘル(peche muger,[260])、ペス・ムリェール/ぺシェ・ムリェール(pez muller, pexe muller[266])などである。カナ表記は暫定。
- ^ なお、ヨンストン『図譜』1660年蘭訳本[271]からの重訳になると、"「ペッヒ・ムーヘル」,すなわち婦魚と呼ぶ。"と九頭見は音写するが[265]、それだとオランダ式発音なので本文では置く。
- ^ ナバレテは、そのやや後年の著述で、そのラテン訳名ピスキス・ムリエル(piscis mulier[45])を記載する。南方は"ラテン語ペッセ・ムリエル、婦人魚の義なり"と説く[46]。
- ^ バッセット(1892年)は「モルッカのセイレーン Molucca siren」と改名している[280]。
- ^ ハンドカラーリング法で着色されているので極彩色[288]。
- ^ じっさいは原書フランス語の"souris"、英語のmouseであり、いずれの単語もハツカネズミ属に限らず様々な小型げっ歯類の総称である。
- ^ そしてルナール図譜の英訳版の編訳者 Pietsch もジュゴン説を支持[289]。
- ^ 『坤輿外紀釋解』(嘉永5年)があるのでそれ以前。
- ^ 益軒(1709年)の下血効能は、ヨンストンにも記載されているのだと九頭見は講じているが[318]、「止血」と「下血」は異なると言えよう。
- ^ 旧西洋医学では痔は"体液の漏れ"の一種と解されていた。伝ヒポクラテス著『痔疾の書』による[319]。
- ^ 既出の西インド会社理事デ・ラエ。この箇所は原文では ラテン名ラティウス Latius を用いる。
- ^ カッシアヌス・ア・プテオことカッシアーノ・ダル・ポッツォから得た情報とする。
- ^ 『六物新誌』のヨンストン訳によれば、皮膚に黒色斑点がある症状は、肉を患部に貼るとそれが解消されるとしている[106][326]。しかしながらJonston オランダ語原文 "Een ander zeit, dat haar visch op het menschen-vleesch geleidt, zo krachtich al de geesten to zich trekt, dat hy den mensch als verdooft maakt".[271]に照らすと、"他者いわく、この魚[人魚]は、人間の肉[欲]を誘導し、すべての精神を強力に惹きつけ、麻痺させてしまう"とまったく違うことが書かれている。『六物新誌』の"黒色斑点"というのは、じつは玄沢が訳しもらした「より強力な雌海人の骨」(上注参照)を区別する特徴なのである。
- ^ 九頭見 2006b, p. 59に複写された『山海経』(平凡社、1994年)掲載の人魚図と一致する。
- ^ ここでは人魚は𩵥(フェイ)に似る、と読める。どの魚種か特定困難だが、日本国内では「ウグイ」の俗字[337]。
- ^ 䱱魚は、現代語辞書ではナマズの種ともオオサンショウウオの種とも定義されるようである。鈴木訳 1930『本草綱目』の〔䱱魚〕人魚・孩児魚図が九頭見 2006b, p. 60に複写されるが、これとよく似る。
- ^ なお『海内北経』陵魚の注では、郭義恭撰『廣志』"鯢魚聲如小兒啼,有四足,形如鯪鱧,可以治牛,出伊水也"(散逸文。『水經注』伊水の項に残る)を引いている[347]。『廣志』逸文は『水經注』以外にも『太平御覧』にも残されているが、徐広から引いた「徐廣曰 人魚似鮎而四足。即鯢魚也」を伴う[348]。『史記』「秦始皇本紀」六(注釈本)では秦始皇帝陵の人魚膏について、張守節『史記正義』による『廣志』の同上引用文、そして徐広(すなわち『史記音義』[348])の同上引用文が注釈にもちいいられる[333]。
- ^ 『山海経』「中山経」本文では𥂕蜼は不詳とあるが[331]、注釈者呉任臣の提案によれば𥂕蜼とは
蒙頌 ()のことであり[352]、『本草綱目』によれば蒙頌は猿の一種である[353]。しかしこれについては別の解釈の余地もある。任臣は䱱魚を「獺」の類だともしており、蒙頌はマングースのことだともされている[354]。 - ^ 原文:"䱱魚形微似獺"。
- ^ 『和名抄』は、『山海経』を引いて小児のような声を発するためこの名があるとしている。
- ^ ちなみに「鯪鯉」とは哺乳類のセンザンコウのことだと『本草綱目』には記される[365]
- ^ 「蛟人」または「鮫人」とも表記されるが、人魚の認識が龍人から半魚人へと変遷したと論考される[368]も人魚のうちに数えられている[369][368]。『述異記』のいくつかの箇所に記述がみえる。
- ^ 『山海経』「海内南経」に雕題国の項があるが、郭璞注によればこれは顔や体に鱗のいれずみをほどこす蛟人のことを指している[376][329]。
- ^ (読み下し):“𥥛(ハツ)は海人を生じ、海人は若菌(じゃくきん)を生じ、若菌は聖人を生じ、聖人は庶人を生ず。凡そ𥥛なる者は庶人より生ず”。
- ^ 𥥛という字は他にほとんど用例が見られず、兪樾は胈(体の表面に生える小さい毛)の誤りだろうとする[385]。
- ^ 現代地名としては「東海」は東シナ海なので、そう解釈されてもいるが[387]、単に「東の海」と訳す例もある[388]。歴史的には「東海」の意味は必ずしもそうではなく、たとえば「日本海」を指す場合がある[389]。
- ^ 鎌倉時代の『古今著聞集』など。
- ^ §越中の人魚(海雷)
- ^ 清寧天皇5年(紀元1140年)の事案としているので[400]、西暦480年となる。なお藤澤は前章で、八百比丘尼の生誕は雄略天皇12年(紀元1128年)すなわち西暦468年としている[401]
- ^ この願成寺には、もうひとつ伝承があり、尼に恋したという人魚のミイラの伝説および伝・ミイラの実物が存在する[413]。「§人魚のミイラ」に詳述。
- ^ 人魚がどう分配されたについては"二喉をば、忠盛朝臣の許へもて行き、一喉をば浦人にかへしてければ、浦人皆切り食ひてけり"(大橋新太郎の読み下し)[425]とあり、"二疋は忠盛朝臣に献上し、残りの一疋は浦人共が割いて食べた(巌谷小波編訳)[426]に従うとする。だが「一匹をみんなで食べた」ではなく「三匹ぜんぶ食べた」という解釈もされる:"忠盛は畏れ多いことと思ったのか、そのまま漁師たちに返却したところ、漁師たちはそれを全部食べてしまった"(川村&浅見)[428]。
- ^ 「津軽の浦」の地名が明確にどこを指すか資料に乏しい。津軽郡 (陸奥国)のどこかの浦となると、現・つがる市の西あたりの日本海なのか、現・東津軽郡の北の青森湾なのか、という話になる。のちの元禄元年の捕獲例は、野内浦とあり、青森湾と思える。
- ^ ただ食い違いもあり、『本朝年代記』では宝治元年に「津軽浦」が、西鶴や、その太宰治の翻案「人魚の海」では「津軽の大浦」としている[444]。
- ^ 直前に「落斯馬(らしま)」も掲載される。「落斯馬」の南方熊楠考については以下の註を参照。
- ^ "半身以上は女人に類して、半身以下は魚類也。人魚骨は、功能下血を留るに妙薬也。蛮語にペイシムトルトと云。紅毛人持わたる事あり"(現代活字本を参照)
- ^ 西鶴の『好色五人女』(1686年)の巻五の五「金銀も持ちあまって迷惑」と「西鶴織留」(1694年)の巻五の一「只は見せぬ仏の箱」にも人魚への言及がある[466]。
- ^ 「第49巻 魚類(江海有鱗)」vs.「第14巻 外夷人物」)。
- ^ 藤澤の「人魚考」ではこの2図を連続で掲載しているが[477]、良安は隣り合わせにしておりらず、所収巻も異なる[注 85]。
- ^ ヨンストンの蘭訳書(1660年)は、すでに1663年に幕府に献上され、野呂元丈『阿蘭陀禽獣虫魚図解和解』(1741年)で抄訳しているが、人魚の項は1、2語を述べたに過ぎないのでこの江戸前期の段階では影響はみられなかった[265]。
- ^ 『坤輿外紀』「海族」には「海女」「海人」とみえる[487]。『坤輿全図』[486]や『坤輿図説』「異物図説」西楞(セイレーン)と表記している[321]。
- ^ 京伝もあるいは『山海経』などに通じていた可能性がある:『箱入娘面屋人魚』では登場人物が人魚に䱱魚 鯢魚の二種類がいると講釈する[488]。益軒は「
䱱魚 () 」、「鯢魚 ()」と区別した[318]。 - ^ 東津軽郡野内村と同定すれば、青森湾の一部であろう。
- ^ 吉岡は宝暦8年としているが[451]。それぞれの資料で年付が7,8,9年とバラバラである。
- ^ 藤澤は資料を『津軽舊記(津軽旧記)『としているが、これは『津軽藩旧記伝類』という抜粋集らしい。
- ^ 「石崎村でとれた異形の魚」(弘前市立弘前図書館蔵『三橋日記』。
- ^ 阿蘭陀渡里人魚の図
- ^ 原文は"越中国、
放生淵 ()四方浦 ()と読まれているが[504]、正しい読みは「よかたうら」[505]。 - ^ ニベ、オオウナギ等。
- ^ ただしピーボディ博物館にあるのはモーゼズ・キンボールの遺贈品であり、バーナムが展示した人魚もキンボールから貸借されたものとされている。
- ^ イアーラが恋人の男性とともに水底に消えそのまま幸せに暮らしたというエンディングもある[556]。
- ^ 以下詳述。
- ^ カスクードは後の『ブラジル民俗辞典』(1954年)で、「マンイ・ダグア(水の太母)」に、より様々なヨーロッパ伝説や原住民神話の影響の可能性があるとする。
- ^ トードス・オス・サントス湾一帯。
- ^ Pero de Magalhães Gandavo. História da Província de Santa Cruz (1576)。"Hipupiàra"と綴る。
- ^ Fernão Cardim, Do clima e terra do Brasil、1584年。 "Igpupiàra"と綴る。
- ^ 男性を破滅させ性器を切り取る存在ならばそれは悪女であるとの観。ヴァギナ・デンタタの寓意に代表される。(イプピアーラに詳述)
人魚と同じ種類の言葉
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