マイア・パンジキゼ マイア・パンジキゼの概要

マイア・パンジキゼ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/08 09:39 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
マイア・パンジキゼ
მაია ფანჯიკიძე
外務大臣
任期
2012年10月25日 – 2014年11月5日
大統領ミヘイル・サアカシヴィリ
ギオルギ・マルグヴェラシヴィリ
首相ビジナ・イヴァニシヴィリ
イラクリ・ガリバシヴィリ
前任者グリゴル・ヴァシャゼ
後任者タマル・ベルチャシヴィリ
個人情報
生誕 (1960-10-16) 1960年10月16日(60歳)
トビリシソビエト連邦
政党自由民主主義者
出身校トビリシ国立大学
イェーナ大学
公式サイトmfa.gov.ge

生い立ち

トビリシにて誕生。父親は作家のグラム・パンジキゼ英語版であった。トビリシ国立大学イェーナ大学で言語学者として研究し、1994年までトビリシでドイツ語の教師をした。1994年に外務省に入省後は、キャリアの大半をベルリンの大使館で過ごした。彼女は2004年に外務副大臣を務めた後、2004年から2007年まで駐ドイツ大使、2007円から2010年まで駐オランダ大使を務めた。2010年、彼女は外務省から解雇を受けた。彼女はこれについて、義弟のイラクリ・アラサニアが2008年にミヘイル・サアカシュヴィリ政権に反対して国連大使を辞任したことに起因する、政治的決定によるものと主張した[1][2]

野党

2012年2月、パンジキゼは実業家ビジナ・イヴァニシヴィリが率いる野党勢力に広報担当として合流した。彼らは野党連合ジョージアの夢=民主ジョージアを結成し、同年10月の総選挙で与党統一国民運動に勝利した。彼女はイヴァニシヴィリ陣営において、広報担当および選挙対策本部長を務めた[1]

外務大臣

ジョージア外務大臣マイア・パンジキゼとアメリカ国務長官ヒラリー・クリントン

ジョージアの夢が2012年の総選挙で勝利した後、パンジキゼは2012年10月25日、ビジナ・イヴァニシヴィリ内閣外務大臣に就任した。彼女は大臣としての第一声として、ジョージアの外交政策の優先事項を挙げた。まず欧州との関係グルジア語版NATOとの関係グルジア語版について統合路線を示し、またアメリカ合衆国との戦略的パートナーシップの発展、近隣諸国との良好な関係の継続について述べた[1]。加えてパンジキゼは、イヴァニシヴィリ新政権はロシアとの関係の正常化を目指していると言及した。ただし独立状態にあるアブハジアおよび南オセチアに対して、占領国であるロシアが大使館を置き続けるのであれば、ジョージアは外交関係の回復を行わないとも述べた[2][3]

首相がイラクリ・ガリバシヴィリに交代した後の2014年11月5日、彼女はイラクリ・アラサニア国防大臣を更迭されたことに抗議し、辞任した。

参考文献

公職
先代:
グリゴル・ヴァシャゼ
外務大臣
2012年 – 2014年
次代:
タマル・ベルチャシヴィリ



「マイア・パンジキゼ」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「マイア・パンジキゼ」の関連用語

マイア・パンジキゼのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マイア・パンジキゼのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのマイア・パンジキゼ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS